ニューヨークの地において、琉舞のワークショップを開いたり、多くのイベントに出演、琉舞や琉球民謡を紹介、奉仕活動に情熱を注いでいる女性がいる。沖縄県出身のフィッシャー長浜順子さんである。順子さんの活動を通して、沖縄芸能がアメリカ東海岸でどのように受け止められているか紹介したい。
読谷村瀬名波出身の順子さんは、神田外大卒後、東芝のコンピューター部門、ゴールドマン・サックス社などで通訳業についた。1988年12月、英語留学の為に渡米、その後はニューヨーク大学、フォーダハム大学にて教育学を専攻した。1991年にニューヨーク出身のジャーナリスト(日本経済月刊誌・エコノミックワールドの当時のチーフエディター)、ラリー・フィッシャーさんと結婚し、現在に至る。
順子さんが、琉球舞踊を始めたのは、5歳の時だった。叔父の故神谷義武さんに宮城流の琉球舞踊の指導を受けるため、嘉手納村にある教室まで通った。18歳から28歳までは東京の日舞五条流派に所属し、85年には東京の国立小劇場で、名取襲名披露公演を開催した。
渡米後、東海岸には琉球舞踊の師範指導者はなく、指導を受けるのは難しかった。しかし、2005年1月、南カリフォルニアを中心に140人以上の門下生を持つ宮城能松琉球舞踊研究所があることを知った。しかも、その門下生の一人、波照間七枝さんがニューヨークに近い東海岸テネシー州で教室を開いていると聞き、早速、順子さんは、テネシー州の七枝さんを訪れた。それ以来3年間、七枝さんの道場に通った。レッスンを受けるときは、七枝さんの自宅へ4日間ほど宿泊し、毎日長時間の集中稽古を受けた。2006年には、カリフォルニアまで出向き能松さんの道場で集中稽古を受け、昨年12月には、沖縄で二代目能造家元から指導を受けたと言う。
そんな順子さんの活動に目を向けたのが、フリーランスの記者で、ニューヨーク日本文化イグザミナーの肩書きを持つ、スーザン・ハマカーさんだ。スーザンさん自身、父はノースキャロライナ州出身だが、国頭村出身の母を持つ沖縄系である。
スーザンさんは、順子さんの琉球舞踊に対する熱意に感銘し、自身のフェイスブックで、順子さんの意気込みを紹介した。「多くの人が沖縄と言えば戦争・基地の島を思い浮かべる、だが私はいかに沖縄が豊かな芸能文化と歴史を持つ島かということに力点を置いて、この地で琉球舞踊のすばらしさを広めて行く所存です」と琉球芸能の普及に、ワークショップや琉舞のパフォーマンスで努力している順子さんにスポットを当てている。
また、沖縄県立芸術大学の波照間永吉教授は順子さんのストーリーを読んで「順子フイッシャーさんの記事読ませていただきました。沖縄の芸能、琉球舞踊に一途に取り組んでおられる方が居られることをとても心強く思います。海外での国際学会などでの経験から、研究者の研究発表等による沖縄文化の個性や奥深さの探究・伝達もさることながら、沖縄の芸能のパフォーマンスによる、琉球王朝の美意識と沖縄庶民のたくましさ・明るさの表現と伝達は、世界の人々により大きな感動を与えるものであることを感じております。その意味でロサンゼルスの舞踊家の眞境名愛子さんや、琴の照屋勝子さんはじめ、今度ご紹介された順子フイッシャーさんのご活動は、本当にあり難く思います。米国はじめ世界の多くの方々へ沖縄文化の神髄を伝えて欲しいと思います」と感想を寄せた。
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1989年以来、沖縄文化交流協会は、毎年のように沖縄の一流の芸能人からなる文化親善外交団を編成し、2003年までにアメリカ、イギリス、フランスはじめ世界21ヶ国53都市で琉球舞踊を公演、民間外交を展開してきた。ロサンゼルスとニューヨークでも、組踊、沖縄舞踊、民謡の公演が行われた。
南カリフォルニアでは、琉球芸能を見る機会が増えたものの、東海岸とくにニューヨーク方面はこれからである。琉球舞踊の普及に努力しているフィッシャー長浜順子さんの努力に感謝の意を捧げたい一存でこのコラムを書いた。パイオニアとしての奉仕活動は普段の何倍もの努力が要求されるが、順子さんの情熱をコラムでサポートできることを誇りとし、この大きな課題を継続して遂行されるよう今後に期待したい。
© 2010 Sadao Tome