キヨミ・ナカニシ・ヤマダ

(Kiyomi Nakanishi Yamada)

サンパウロ州ベベドウロ出身。サンパウロ総合大学看護学部卒業。2010年引退までロンドリーナ州立大学教授。同大学の高齢者向けのラジオ番組「Tecer Idades」のプロダクションの一人。コミュニティの高齢者化プロジェクトのボランティアとして活動。寝たきり高齢者と介護者のためのロンドリーナにあるサポートハウスの取締役会に参加。日本文化を継承する目的で成立された「グルッポ・ヒカリ・デ・ロンドリーナ」のメンバー。このグループのウェブサイト製作、編集を担当。

(2018年6月 更新)

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Nikkei Chronicles #7—Nikkei Roots: Digging into Our Cultural Heritage

パラナの「グルッポ・ヒカリ・デ・ロンドリーナ」の伝統行事『餅つき』

もち米で作った団子「餅」は、ブラジルの日本移民や日系人の多い地域のスーパーや朝市、日本食品店で簡単に手に入ります。

店頭に並ぶ餅を見る人の多くは、日本文化における餅の由来や意味など知らないと思います。

餅を作るのはとても手間がかかる作業ですが、昔からブラジルの日系コミュニティでは結婚式やお正月のお祝いに欠かせないものでした。

一晩水に浸したもち米を蒸して、それを臼に入れて男性たちが槌で搗いて餅を作ります。美味しい餅を作るには5人の男の力が必要だったと言われています。

親族や友人が交代でもち米を浸し、蒸し、それを臼にいれて搗いて餅を作っていました。

皆の協力で出来たたくさんのお餅は、皆で味わって食べました。

日本では、餅は神聖な食べ物として伝えられ、長寿、豊富、繁栄を祈願してお正月に食べる習わしがあります。

ブラジルの幾つかの日系団体は『餅つき』の伝統を守り、継続させることで、日系人や非日系人に日本文化を伝えています。「グルッポ・ヒカリ・デ・ロンドリーナ」はその一つです。

このグループによる餅つきは、メンバーの何人かが、2005年にパラナ州ノヴァ・ファチマの日系婦人会を訪ねたことがきかっけでした。

以来、餅づくりを行っており、今では、毎年70人のメンバーによる餅つきが行われ、ロンドリーナの町とその周辺地域に日本文化を広く伝えています。

もち米の一粒一粒は、臼で搗くと一つのかたまりになります。私たちももち米のように、ひとりで何かをするのではなく一緒に行うことで、団結して人生の逆境を乗り越えることが出来ます。

当初は、昔ながらの手法でもち米を臼に入れて杵で搗いて作っていましたが、今は機械を使って作っています。その機械はグルッポ・ヒカリのメンバーのひとりが製作した物で、イベント最中にメンテナンスをが必要になることもあります。

2006年の第一回オドリ・フェスティバルでは、一万のミニ餅(通称:アメモチ、雨餅)をボランティアの方々が作り、平和と喜びと幸せのシンボルとして参加者に振り撒きました。

今日まで続くこの「アメモチ」は、日系人だけでなく、非日系人の間でも人気を博しており、オドリ・フェスティバルの「幸せの団子」を求める非日系人の数は毎年増えるばかりです。

2007年には、ロンドリーナにあるエンブラッパの従業員協会が『餅つき』に関するイベントを企画しました。約500人が訪れたこのイベントでは、昔ながらの餅の作り方や機械を使った餅づくりの仕方を紹介しました。参加者は餅やお雑煮を試食し、餅を持ち帰ることが出来ました。

グルッポ・ヒカリのコーディネータであるルイス・クラモトさんは日系ブラジル人は日本人よりもルーツを守るべきだと地元紙にこう語りました。「古き日本はブラジルにある。日本から来る人は、日本ではすでに消えてしまった伝統が(ブラジルには)残っていると驚いている」。また、「餅は神様の食べ物だったと言われている。餅を家に持って帰ることは、家に神様を招くということだ」と。

餅は焼いて醤油と砂糖を付けたり、納豆と一緒に食べたりします。また、小豆を甘く煮て餅を入れて食べる善哉やお汁粉、さらには昆布、かまぼこ、しめじ、ごぼうなどをホンダシ、醤油、酒、味の素で調理した汁に餅を入れた、お正月料理の一品、お雑煮としても楽しめます。

メンバーの協力のおかげでグルッポ・ヒカリの餅は好評で、売上金はグループのためだけでなく、介護施設、特に、マリンガ市にあるパラナ老人福祉和順会へ寄付されます。

この『餅つき』のイベントに参加した多くの人は、家族と一緒に経験した作業などの懐かしい幼少期や青年期の思い出がよみがえります。このような文化的なルーツがなかったならば、日系人のアイデンティティは存在しなかったと思います。

2018年、ブラジルの日系コミュニティは移民110周年を迎えました。私たちこのエッセイの筆者は、日本移民の子孫です。ブラジル生まれであっても、私たちのルーツは日本にあり、日系人の誇りを持っています。

 

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Nikkei Chronicles #6—Itadakimasu 2!: Another Taste of Nikkei Culture

A influência da culinária japonesa no Brasil – ontem, hoje e amanhã

Os imigrantes japoneses vieram para o Brasil no século passado para trabalhar nas lavouras de café com o sonho de enriquecer e depois voltar para o Japão. Diante das dificuldades encontradas e, percebendo que não seria possível concretizar este sonho, iniciaram o processo de integração com os brasileiros (gaijin).

Aos poucos foram se adaptando aos costumes, culinária, crenças religiosas e estilo de vida do povo daqui. Mas no convívio familiar preservavam a sua cultura, principalmente quando as gerações mais novas conviviam com pessoas idosas preocupadas em repassar valores, costumes, idioma e também a culinária do Japão. 

Os hábitos …

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Nikkei Chronicles #5—Nikkei-go: The Language of Family, Community, and Culture

ロンドリーナの「グルッポ・ヒカリ」 ~メンバーが日常で使う日本語~

私たちは第二次世界大戦前の日本からの移民の子孫である。子供、若者、大人、高齢者にかかわらず、みんな移住者の子であり、孫であり、曾孫、玄孫である。

日本を後にした私たちの祖先は西洋の文化を吸収しつつ、日本文化を私たちに伝えてくれた。特に、若い世代と高齢者の交流は、日本の価値観や風習、料理、言葉などを継承するのに役立っている。

ブラジルで最も日系人の多い地域はサンパウロ州で、二番目はパラナ州北部である。パラナ州の中でも、ロンドリーナという町は日系人の多さがきわだっている。

この町で行われる日系の催し物は、大勢の観客を引き寄せる。日系コミュニティの音楽、踊り、料理、民芸品、宗教を紹介することで、東洋と西洋の文化の交流が見受けられる。

ロンドリーナの「グルッポ・ヒカリ」という団体は、2005年に日本文化、特に盆踊りをブラジル人の間に広めるために創立された。日本文化を広める活動のほか、援助が必要な施設のためにイベントを企画したり、メンバーたちの友情の絆を深め、チームワークや生活の質の向上を目指すためのミーティングなどを行っている。

日本語で「光・輝き」を意味する「ヒカリ」を、グループ名として選んでくれたのはグループの創立メンバーである。

踊りを楽しむ約80人のメンバーは、一年を通じていろいろな行事に参加している。「新年会」や「忘年会」、3ヵ月ごとに企画されるメンバーの「誕生会」、さらには「餅つき」や「‶踊り″フェスティバル」といった催し物で、どれも日本語の名前がついている。

メンバーが集まるときは、めいめいがご馳走を持ち寄ることになっており、「モチヨリ」集会とも言われている。この時、大きな布「フロシキ」に料理を包んで持ってくる人もいる。多種多様なご馳走の中でも、根菜の煮物「煮しめ」は欠かせない。皆で「万歳!」と日本語で乾杯したあとに、パーティーが始まる。

移民が持って来た「モチ米」で作った「モチ」を食べる伝統を守るために、2006年に餅つきイベントが始まった。その時集めた募金は、パラナ州マリンガの老人ホーム、ワジュンカイのような施設へ寄付された。

「幸運の団子」と言われているモチは、「お正月」に食べる伝統的な食べ物だ。しかし、ここでは普段から「お雑煮」や「ぜんざい」として、食されている。肉と野菜と昆布が入っているお吸い物が「オゾウニ」として親しまれており、「ぜんざい」は小豆という特別な豆を使って作ったものである。

お餅の食べ方はほかにもある。焼いた後に「ショウユ」と砂糖を少し付けて食べたり、グループのメンバーには餅を「ナットウ」と一緒に食べる人もいる。

ロンドリーナで毎年11月に行われる踊りフェスティバルの目玉は「盆踊り」で、周辺の町から多くの団体が参加する。盆踊りは高齢者の間で人気があり、「炭坑節」、「桜音頭」、「親鸞音頭」、「浪花節だよ人生は」などを楽しんでいる。一方、若者たちは「タイコ」の音を聞くと、「祭りダンス」が始まるのを、今か今かと待っている。「祭りダンス」とは現代バージョンの盆踊りである。

演奏者は「やぐら」の上で太鼓を打ち鳴らし、観客はその周囲を回りながら踊りを楽しむ。

各団体のロゴ付きの「はっぴ」か「浴衣」を着て踊る。浴衣は伝統的な着物に似ているが、より簡単に着ることができて夏に向いている。

会場には約1,000個もの「提灯」が飾られ、「折り紙」を買った人はそれに自分の名前を書いて飾る。「サクラ」の造花のデコレーションも見られる。桜はその場の空気を調和し、良いエネルギーを与える。

そして、会場を盛り上げるのが「雨餅」踊りのときである。平和と幸せのシンボルとして10,000個のミニ餅が観客に配られる。

イベントでは「ヤキソバ」や「スキヤキ」といった東洋料理の屋台が出る。ここで売られているヤキゾバは、牛肉と麺と野菜で作られており、スキヤキは似たような材料でただ味付けが違うだけだ。「うどん」は麺をベースにしたスープのことで、私たちが「チャワン」と呼んでいるどんぶりに入れて売られており、みな箸を使って食べる。ご飯を昆布のようなもので巻いたものが「スシ」として売られている。西洋料理のパステルやブラジル式焼き鳥のようなファーストフードもある。これらの屋台は、私たちのグループではなく、外部の業者に委託している。

個人、グループにかかわらず旅行に行く時、州内や他州のお祭りに参加する時に欠かせないのが「ベントウ」である。お弁当のおかずは、スシのほかに「焼き魚」や「漬物」、卵焼きなどだ。お弁当はバスや車の中やサービスエリアで食べるのが普通である。

盆踊りの催しは町の公園やイベント会場、日系コミュニティーが利用する「会館」で行われる。「婦人会」のメンバーは日本の伝統的な料理で観客をおもてなしする。

イベントのコーディネーターに「御礼」という封筒を渡すのが、私たちの習慣である。封筒には、イベントの経費と食事代が入っている。

ヒカリの会員は、皆、人生を楽しんでいるが、時には、悲しい出来事もある。それは、家族や友人、または会員の死である。私たちは葬儀と埋葬に参列し、メンバーの死をともに弔う。

家族関係や友情の深さにより、香典を親族に渡す人もいれば、西洋の習慣に従って花輪を供える人もいる。多くの場合、お坊さんに葬儀を依頼するが、西洋か東洋の別の宗教の代表に頼むこともある。

グループ内で「もったいない」という言葉は特別な意味を持つ。例えば、食べ物を残さず食べる、蛇口をしっかり閉める、洗剤は節約して使う、といった価値観である。

「もったいない」の知恵は、私たちが環境とどう向き合って無駄遣いをしないかを教えてくれる。

グループのメンバーはみな、ブラジル生まれで、高等教育を受けており、ポルトガル語も達者である。しかし、日常のコミュニケーションで、日本語の表現を混ぜるのが普通である。「頑張ってね」、「しょうがないね」、「疲れたね」、「すみません」、「元気ですか」、「いただきます」などをよく使う。

また、ポルトガル語と日本語をミックスして使うことも多い。「ジェラデイラ(冷蔵庫)の中に置いてください」、「ボルサ (ハンドバッグ) に置きました」、「オニブス(バス)で帰ります」、「アルモッソ(昼食)に来て下さい」といった感じだ。時には「ヴァモス・コロカル・メザ掛け」という人もおり、訳すと「テーブルクロスを掛けましょう」となる。

グルッポ・ヒカリの目的は、高校や大学、企業や他の非日系コミュニティーに溶け込んで日本文化を普及することである。

交流を通じ、時間厳守、公約、連帯、環境の整理整頓のような意義を皆と分かち合い、非日系コミュニティーに日本の言葉、芸術、食文化、スポーツのすばらしさに関心を持ってもらいたいと思っている。私たちはブラジルで生まれ、ブラジル人である誇りを持っているが、わたしたちのルーツは地球の裏側「日出づる国」にあるのだ!

 

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Nikkei Chronicles #4—Nikkei Family: Memories, Traditions, and Values

我々の人生: 現在と過去そして未来

人生劇場で私たちはいろいろな物語の主人公になりますが、多くの場合、無名の役者のままで人生を終えます。

母方の祖父母は大阪出身、父方の祖父母は東京出身。コーヒー園で働くためにブラジルへ移住する1930年代まで故郷で暮らしていました。

母親のシズヨは現在89歳で、一族の中で、唯一存命です。70歳を迎えた時、移民として経験した厳しい生活の記憶を子孫に残したいと語りました。それを、娘の私がポルトガル語に翻訳しました。

《学問と仕事に励み、日本人であり、この物語の主人公でもある両親や祖父母や層祖父母の根気強さ、忍耐力と楽観主義を次の世代に引き継いでいって、若い人は成功して欲しいものです。》

神戸港、19367

私たちはブラジル行きのリオ・デ・ジャネイロ丸に乗っています。父親のタナカ・ゼンウエモン、母親のトメと私たち四人姉妹マサコ、シズヨ、フミコとエミコに日本との別れのときが来たのです。

見送りに来てくれて手を振っている伯父やいとこや友人に、船の甲板から紙テープを投げました。船が港を遠ざかるにつれ、紙テープはちぎれ、親戚や友人の姿がどんどん小さくなり、水平線に消えていきました。それから、45日間、見えるのは海だけでした。時には穏やかで時々荒れ狂いましたが、ただ、真っ青な海でした。

大陸の横を通り、大海を航行し、何度も下船、乗船を繰り返して、ようやく、8月29日にブラジルのサンパウロ州サントス港に着きました。大人と若者と子供を含む1000人以上の移民が、最低限必要な物だけを持参して、ブラジルで新しい生活を始めます。長い間、海しか見ていなかった私たち姉妹は船から出て陸路の旅が待ち遠しく思っていました。

下船後、私たちはサンパウロ市内の「移民宿泊所」に泊まり、翌日には、薪でゆっくりと動く汽車に乗りました。車窓から見える景色は日本にいた頃とはまったく違う景色だったことを思い出します。

汽車は時々停車し、その度に大勢の家族が降りて、涙ぐみ、悲しい別れを惜しんでいました。別れの辛さと将来の不安への涙でした。子供たちはと言えば、そのような別れの様子には無関心で、周りの背景や人や動物を観察していました。全てが初めて見る物ばかりでした。

車内で口にした食べ物はとても奇妙な物だと思いました。後で、「モルタデッラ」というソーセージのサンドイッチだと知りました。車両に南京錠をかけている男たちを見たのをぼんやり覚えています。何十年経った今でも、あのことを思い出し、私は疑問を抱いています。あれは、移民たちの安全を守るためだったのか、移民の逃走を防ぐためだったのでしょうか。

終着駅はモンテ・アウト・パウリスタという所で、私たちはそこで降り、トラックに乗ってコーヒー園に向かいました。

家は木造で、とても質素でした。大阪の二階建で、とても居心地の良い我が家とは比較にすらなりませんでした。水は井戸水と湧水でした。

私たちからすると、ブラジル人、いわゆる「ガイジン」の食習慣はとても変わっていて、ごはんとフェジョン(豆)と日干し肉とじゃがいもの煮物でした。

種子を持ってきた家族は自家用に二十日大根、大根、人参や白菜などを植え始めました。

ポルトガル語で話す難しさだけでなく、日の出から日の入りまで続くきつい労働のため、私たちは近所のブラジル人とあまり接する機会がありませんでした。私たちの目標は金持ちになって日本へ戻るか、自分の土地を持つことでした。

私は17歳で結婚しました。移民の間では見合い結婚の習慣があり、仲人が父親に花婿を紹介し、父親が許可すると、結婚式は収穫の終わりに行われました。義母が義父に初めてあったのは、結婚式の直前だったと話してくれたことがあります。

日本では、結婚した長男は両親と一緒に住む習慣があり、父親は家族の長で、権限を持ち、尊敬されていました。結婚した女性は夫と義父母に従わなければなりませんでした。伝統に従って、私は姑と義弟と暮らすようになりました。義父は他界していました。夫と義弟は耕作、姑と私は野菜畑を耕し、豚と鶏の家畜の世話に取り組んでいました。

家は素朴な木造で快適さとはほど遠いものでした。台所やお風呂用の薪は近くの森に取りに行っていました。日本の古くからの習慣である「お風呂」に、移民たちはドラム缶を使っていました。清潔のためである以上に、一日の疲れを取るためのものでした。

電気は1952年まで家にありませんでした。利用できるようになると、私たちはラジオを買って、サンパウロの「Rádio Cultura」という日本人向けの番組を聴くのを楽しみにしていました。

私たちは契約入植者でもなく、雇われ人でもなかったのです。家族は小作人として綿と米とトウモロコシを作っていました。土地を牛や馬を使って耕し、種を蒔き、作物の間の雑草を引き抜き、全てが手作業で、とても辛いものでした。収穫の30%は農園の所有者に土地利用代として支払っていました。

買い物は農園の店でつけで買い、収穫が終わると、代金を支払っていました。病気の場合は入植者を診る同じお医者さんにかかりました。時々、農園の会場でローレル&ハーディの映画を見ました。町に用事がある時は汽車やトラックに乗って行っていました。

第二次世界大戦中、日本とドイツとイタリアが他の連合国と戦っているニュースはまったく届きませんでした。当時、多くの日本移民は差別され、スパイと疑われて警察に監視されていました。

私は約80年ブラジルで暮らしています。最初の20年は田舎に住んでいました。あの当時はとても厳しく、懐かしいとは言えませんが、昔を振り返ると、今は不自由のない生活で、私は幸せ者だと思います。子供や孫やひ孫は、私や姉妹たちが移民として、どのように生活をしていたかを、まったく想像できないでしょう。

最近、70年前に住んでいた場所を車で通りかかりました。私の記憶に残っていたのは、家や野菜畑、塀の中のみかんの木、マンゴの木、バナナの木、そして、裏の池でした。ところが、目にしたのはみかん畑の真ん中にある貯水池でした。それも一瞬のできごとで、車はその場を後にしました。

私が驚いたのはユーカリの並木でした。当時と変わらずに、高く葉を茂らせて長い木陰の道を作っていました。70年の時を経ても、樹木は伐採されていなかったし、それどころか、しっかり根付いて存在感を示しています。

ナカニシ家とタナカ家の子孫の、いわゆる、「サンセイ」・「ヨンセイ」・「ゴセイ」の若者は成功と幸せの将来を望んでいます。夢を実現するには、学問と仕事が必要不可欠だと信じています。同時に、他の若い日系人と交流しています。友人の多くは日本で「デカセギ」として働いているか、その経験をした者です。

昔、私を迎え入れてくれたブラジルは、今、私の子孫の母国でもあります。何世代に渡って培った愛国心。彼らは「ブラジル人」になりたいと強く望んでいます。ただ、自分の祖先の源を忘れないで欲しいと思っています。

 

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このエッセイは、「ニッケイ・ファミリー」シリーズの編集委員によるお気に入り作品に選ばれました。こちらが、編集委員のコメントです。

セリア・サクライさんからのコメント

キヨミ・ナカニシ・ヤマダさんが母親シズヨさんの人生の話を書いた「我々の人生: 現在と過去そして未来」。10歳でブラジルに移住し、現在89歳のシズヨさんは若者たちが「自分の祖先の源」、つまり、ルーツを忘れないで欲しい、との思いを述べている。昔、住んでいた所は、そこだと、認識できないほど変わっていたが、家族が植えたユーカリの木はそのままだ。このユーカリはシズヨさんの話のように世代を繋いでいる。それは、シズヨさんにとっても子孫にとっても生き甲斐である。

 

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