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セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

(Sergio Hernández Galindo)

@sergiohernandez

セルヒオ・エルナンデス・ガリンド氏は、コレヒオ・デ・メヒコで日本研究を専攻し、卒業した。メキシコやラテンアメリカ諸国への日本人移住について多くの記事や書籍を刊行している。

最近の刊行物としてLos que vinieron de Nagano. Una migración japonesa a México [長野県からやってきた、メキシコへの日本人移住]  (2015)がある。この本には、戦前・戦後メキシコに移住した長野県出身者のことが記述されている。また、La guerra contra los japoneses en México. Kiso Tsuru y Masao Imuro, migrantes vigilados(メキシコの日本人に対する戦争。都留きそと飯室まさおは、監視対象の移住者) という作品では、1941年の真珠湾攻撃による日本とアメリカとの戦争中、日系社会がどのような状況にあったかを描いている。

自身の研究について、イタリア、チリ、ペルー及びアルゼンチンの大学で講演し、日本では神奈川県の外国人専門家のメンバーとして、または日本財団の奨学生として横浜国立大学に留学した。現在、メキシコの国立文化人類学・歴史学研究所の歴史研究部の教育兼研究者である。

(2016年4月更新)


この執筆者によるストーリー

コンセプシオン・ヒラムロとフランシスコ・アカチ:交錯する移民の子供たちの二つの人生

2018年2月21日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

コンセプシオン・ミチエ・ヒラムロとフランシスコ・ヨシタカ・アカチは、1963 年にグアダラハラ市で結婚しました。彼らの人生は、家族を形成したという事実によって絡み合っただけではありません。彼らが日本移民の子としてメキシコに生まれたとき、彼らの人生は平行線をたどりました。なぜなら、彼らの子供時代は戦争の困難な時期と、1945年の日本の敗戦後に続いた同様に悲惨な時期に日本で過ごしたからです。美智恵さんは広島市で兄弟や母と暮らしていたときに、原爆投下を目撃した。義隆は両親や兄弟と…

第二次世界大戦中の日系アメリカ人に対する政策:今も残る非人道的な人種差別

2017年11月8日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

ドナルド・トランプ大統領が導入している、若年移民に対する強制退去の延期措置(DACA)制度の廃止案を含む一連の反移民措置は、1941年12月に太平洋戦争が勃発した後、日系アメリカ人がいかに迫害されたかを思い起こさせるものだ。オバマ大統領が2012年6月に制定したDACAにより、80万人の若者が強制送還の恐れなく米国で学び、働くことができるようになりました。これらの若者は、仕事とより良い将来を求める親によって、移民書類を持たずに子供の頃に米国に連れてこられました。これらの移民…

カルロス春日小坂氏という人物 ー日系社会における奮闘と努力のストーリー

2017年10月26日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

メキシコだけではなく中南米では誰もが知っているメキシコの日系経営者カルロス春日小坂氏は、2017年10月に80歳になった。カルロスさんは、日系企業であるメキシコ・ヤクルト社の会長としても知られているが、それ以上に講演者としても非常に有名であり、SNSでは何千というファンがいる。 カルロス春日さんが経営者として、そして日系指導者として成功したのは、彼が勤勉でとても努力家であったからである。しかし、ここで紹介するストーリーはあまり知られていない。長野県出身の日本人移住者の…

ホセ・タロウ・ソリージャ・タケダ:社会問題を作品にする日系建築家

2017年10月16日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

ホセ・タロウ・ソリージャ・タケダ(José Taro ZORRILLA TAKEDA)は、日本とメキシコの名門大学で教育を受けた日系メキシコ人若手アーティストである。両国で得た学問と経験を活かしながら、自らの職業活動の専門性を向上させ、二つの国の社会問題に真剣に取組んでいる。 彼の母親の武田和子さんは、1974年にメキシコにやってきた。東京の上智大学でスペイン語学科を専攻した。当時多くの日本人がそうであったように、彼女もメキシコの文化に魅了された一人だった。…

荻野正蔵氏:日墨関係500年の記録を追って

2017年8月2日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

荻野正蔵氏が執筆した『海を越えて500年』は、メキシコと日本の交流関係を記録したすばらしい著書である。440ページに及ぶこの作品は、16世紀に当時のメキシコがまだヌエバ・エスパーニャ副王領だったころに日本と初めて交流を持ったときからはじまり、1897年以降メキシコに到着した日本人移民のたくさんの人生物語や出来事が盛り込まれている。 初の移民団がメキシコに到着する11年前に、両国はすでに友好条約を締結していた。組織的に日本人移住が始まったのは、1897年である。荻野氏の…

イサムカルロス柴山とラ米日系人の迫害:まだ終わっていない事件調書

2017年5月1日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

イサム・カルロス・柴山氏は、1931年に南米のペルーで生まれた日系人だ。幼い頃アメリカ政府によるペルー政府に対する要請で、1944年に両親や兄弟、祖父母とともにリマで拘束された。家族全員がテキサス州のクリスタルシティー収容所に移送され、2年にわたってアメリカで収容生活を送った。祖父母は、他の連合国の捕虜と交換され日本に帰還するが、イサムは二度と会うことができなかった。 イサム・柴山氏は現在86歳で、アメリカ人としてアメリカ政府による戦時中の人権侵害に対して正義を要求してい…

絆:ニッケイ・ストーリー ~東日本大震災から~
2011年東日本大震災の被災者に送ったメキシコのくす玉と応援メッセージ

2017年3月10日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

2011年3月11日の早朝、画家の鈴木美登里さんはなかなか眠りにつくことができなかった。その日は朝から、日墨協会で自身とアーティスト仲間が企画した「マゲイの花(竜舌蘭の花)」という絵画展の開会式が予定されていた。眠ってしまった頃に電話がなり、友達から日本で大きな地震が発生したという知らせが入った。朦朧としたまま、次のように返事した:「心配しなくてもいいよ!日本ではいつも発生している地震の一つよ!」、と言って電話を切ったのである。 それから数時間後まだ朝のかなり早い時間…

メキシコ日本人移住者の「正月」という祝賀行事と伝統料理

2017年1月1日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

アメリカ大陸に移住した何十万人という日本人は、必要最低限のものしか持参せず少々の着替えといつまでも記憶に残る故郷の写真ぐらいであった。しかし、彼らは自分の家族やその出身村で育んだ無数の伝統と風習を、当然移住先に持ち込んだ。生まれ育った故郷から何千キロも離れたところに住んでいても、消すことのできない記憶のように食べ物の色や味、その匂いを特別な祝賀行事の日に再現したのである。 新年の行事「正月(shogatsu)」は、日本人にとって最も重要な行事であり、今もその伝統は受け継が…

アメリカにおける日系移民に対する憎悪と迫害の戦い。決して忘れないでください

2016年12月7日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

何百万ものメキシコ人と居住するイスラム教徒米国で1941 年 12 月 7 日の午後、日本海軍による真珠湾の北米海軍基地への攻撃のニュースは、すでに野火のようにアメリカ大陸中に広がりました。多数の日系移民とその家族が居住する米国、メキシコ、その他の国々では、大きな不安、恐怖、苦悩の時代が始まりました。 -「私たちはどうなってしまうのでしょうか?私たちは国外追放されるのでしょうか?私たちも投獄されてしまうのでしょうか?」これらは、移民の家族が自分自身に抱いた最初の質問でした。…

メキシコ革命に関わった日本人移住者

2016年11月7日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

1910年が終わろうとしていた頃、メキシコでは対照的な二つの出来事が起きた。その一つが、9月には盛大に行われた独立100周年記念式典である。そこでは、統一された近代国家をアピールされ、国民も喜びと愛国心に満ちていた。30年にわたり強い指導力で国を統治してきたポルフィリオ・ディアス大統領の願いが濃く現れたものであった。年老いた独裁者は、「独立の叫び(Grito de Independencia)」を行い、大規模なパレードを実施し、半円形のフアレス慰霊碑や独立記念柱等を建造させ…

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