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セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

(Sergio Hernández Galindo)

@sergiohernandez

セルヒオ・エルナンデス・ガリンド氏は、コレヒオ・デ・メヒコで日本研究を専攻し、卒業した。メキシコやラテンアメリカ諸国への日本人移住について多くの記事や書籍を刊行している。

最近の刊行物としてLos que vinieron de Nagano. Una migración japonesa a México [長野県からやってきた、メキシコへの日本人移住]  (2015)がある。この本には、戦前・戦後メキシコに移住した長野県出身者のことが記述されている。また、La guerra contra los japoneses en México. Kiso Tsuru y Masao Imuro, migrantes vigilados(メキシコの日本人に対する戦争。都留きそと飯室まさおは、監視対象の移住者) という作品では、1941年の真珠湾攻撃による日本とアメリカとの戦争中、日系社会がどのような状況にあったかを描いている。

自身の研究について、イタリア、チリ、ペルー及びアルゼンチンの大学で講演し、日本では神奈川県の外国人専門家のメンバーとして、または日本財団の奨学生として横浜国立大学に留学した。現在、メキシコの国立文化人類学・歴史学研究所の歴史研究部の教育兼研究者である。

(2016年4月更新)


この執筆者によるストーリー

ヘスス・アカチ: 二世のメキシコへの生涯と貢献

2016年10月4日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

ヘスス・アカチは年中無休で、毎朝9時45分に文具店「La Nueva Violeta」を開店します。ドン・ヘススとその妻は、一日中、ノート、鉛筆、ペン、そしてビジネスアイテムを構成する何千もの商品を扱いながら、メキシコシティのタキューバ地区に住む数百人の顧客にサービスを提供します。この場所の住民は、彼らがいつもフレンドリーで気配りのある対応をしていることをよく知っています。しかし、多くの人は、ドン・ヘススの顔の東洋的な特徴と妻が日本人であるという事実から、ドン・ヘススはメキ…

メキシコ独立100周年記念式典と日本の参加

2016年9月13日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

9月はメキシコの独立記念日を祝うため、メキシコの人々にとって重要な月です。 1910 年、メキシコ独立 100 周年が複数の活動で祝われたため、祝賀会は盛大で特別なものでした。ポルフィリオ・ディアス将軍政府は、細心の注意を払って事前に祝典を準備し、このような重要な記念日を記念する工事に多大な労力と資金を投資しました。建設された最も代表的な記念碑は間違いなく、メキシコシティの最も重要な大通りの 1 つであるエル パセオ デ ラ レフォルマに位置する独立記念柱です。 ディアス大…

平室フェルナンドと山下ヤスアキ:広島と長崎の原爆を生き延びた日系メキシコ人—その2

2016年8月9日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

その1を読む>> 山下ヤスアキ(保昭)は、長崎で1939年に生まれた。1945年8月9日に、米国の2番目の原爆投下が行われるまで、ヤスアキは幼少期をずっと戦時下に育った。1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃の前から日本は既に中国と戦争になっており、1931年から同国を実行支配下に置いていた。この紛争状態による期間は、国民にとって多くの困難と忍耐を意味し、「暗い谷間の時代」として知られている。 戦時下ではあったが、ヤスアキは友達と山や森のなかでコオロギや蝉をとって…

平室フェルナンドと山下ヤスアキ:広島と長崎の原爆を生き延びた日系メキシコ人—その1

2016年7月7日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

今年8月、終戦71周年を迎える。広島と長崎に原爆が投下されてからそれだけの年月が経っているということだ。終戦直前に、この二つの都市では多くの人が死傷し、街は破壊された。そして生き延びた被爆者は未だに原爆による放射能の影響を受けている。 この戦争で、日本国民はあまりにも大きな犠牲を払った。原爆投下前から、国民は軍による様々な要求に従い、苦しい生活を強いられていた。戦場に行かないお年寄りや女性、子供たちでさえ、日々のご奉仕につとめ、じっと耐え忍び、戦争を支えていたのである。 …

ニッケイ物語 5—ニッケイ語:家族、コミュニティ、文化の言葉
メキシコの中央学園:日系社会の功績を育んだ種

2016年6月3日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

メキシコ中央学園は、この国の日系人及び非日系メキシコ人の児童や学生に日本語や日本文化を72年間にわたって教えてきた。この学校はメキシコシティー中心部のかなり賑やかな地区にある。これまで絶え間なく日本語教育を継続できたのも、多くの人々の努力と辛抱強さの賜物である。日本人パイオニアたちがこの学校を1944年に開校して以来、メキシコ生まれの日系子弟の未来を築くために日本語教育を施すことは大きな責務だと考え、その信念を貫いた結果である。 中央学園は、戦時中にできた学校である。メキ…

松本辰五郎とメキシコ・ジャカランダの花のマジック

2016年5月6日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

1912年、当時の東京市長であった尾崎行雄氏は、アメリカ合衆国に桜の木3千本を寄贈した。その桜の木は主都ワシントン市内のポトマック川沿いに植えられた。以来、アメリカの首都は毎年桜の花が咲きはじまると春の訪れを意味し、街は桜色に染まるようになった。 メキシコでも、パスクアル・オルティスルビオ大統領(1930年−32年の任期)が両国の友好の証として、市内の主要大通り沿いへの桜の木の寄贈を日本政府に要請した経緯がある。日本国外務省は、既にメキシコに定住していた日本人…

春日光子の短歌への情熱、メキシコと日本への思いを綴る

2016年4月1日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

小坂(おさか、旧姓)光子は、長野県伊那市で1914年に生まれた。小坂家の四人姉妹の二女で、同家はかなり裕福な農家だった。父親は、養蚕と米栽培に従事し、生糸業者組合の会計責任者だった。当時、日本にとって絹糸は有力な輸出商品の一つで、長野県でも何十万世帯が養蚕家であった。光子はその様子をこのような短歌で表している。 桑の香のたつ蚕室(さんしつ)に給桑(きゅうそう)の 母若かりし美しかりし1 光子の幼少期は大正時代(1912-1926)で、自由主義的、民主主…

Japoneses la comunidad en busca de un nuevo sol naciente - Parte 10

2011年2月3日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

Parte 9 >>  EL LICEO MEXICANO JAPONÉS La construcción del Liceo Mexicano Japonés cerró una etapa en la reconstitución de la comunidad japonesa después de la Segunda Guerra Mundial. Cuarenta años después de finalizada, y luego de superar el trauma de la derrota, los residentes japoneses se unieron para crear una escuela única con gran prestigio que atrajera a miembros de otras comunidades. Sus propósitos se hicieron realidad. La comunidad japonesa se fortaleció en términos económicos y tejió una serie …

Japoneses la comunidad en busca de un nuevo sol naciente - Parte 9

2011年1月27日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

Parte 8 >>  LA ESCUELA CHUO Como parte de la concentración, una de las prioridades de los residentes japoneses fue atender a sus hijos y conseguir la continuidad de sus estudios. Para ello, el Comité de Ayuda Mutua (Kyoeikai) fundó el Departamento de Educación, enfocado en la enseñanza del idioma japonés. Nombraron a maestros con amplia experiencia docente, como el profesor Takizawa, encargado de la escuela de Río Mayo en Sonora. El organizó la Escuela Chuo en el segundo piso …

Japoneses la comunidad en busca de un nuevo sol naciente - Parte 8

2011年1月20日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

Parte 7 >>  LAS PAPELERÍAS LA VIOLETA Y LA NUEVA VIOLETA Al ser obligados a concentrarse en la ciudad de México durante la guerra, el señor Arata Akachi y su familia arribaron de Los Mochis, Sinaloa, donde vivían desde hacía más de diez años. En esa ciudad norteña la familia Akachi poseía un molino de nixtamal, fruto de su trabajo y del ahorro de muchos años, que les permitía vivir de manera holgada. Junto con ellos venía su primo, Ernesto …

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