マルタ・マレンコ

(Marta Marenco)

マルタ・マレンコ氏は、1945年に7人兄姉の末っ子として父タツゾウと母エステルのもとに生まれた。父を9歳の時にんなくした。母は、イタリアのジェノバ出身の子孫。アルゼンチンの北部で育ち、後に職を求めてブエノスアイレスに転住し、それぞれがブエノスアイレスで家族を築いた。夫はアルゼンチン人の獣医で、すばらしい二人の息子はメキシコに住んでいる。現在リタイヤして年金生活者の人生をエンジョイしている。

(2015年9月 更新)

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Nikkei Chronicles #8—Nikkei Heroes: Trailblazers, Role Models, and Inspirations

Breve historia de mi ídolo

Conocí a George Chinen cuando comenzaba mi adolescencia. Había nacido en el barco en el que su familia viajaba hacia Argentina, mientras ya navegaba dentro de la plataforma del territorio argentino, por lo que fue declarado ciudadano argentino. Su padre era Shigeo Chinen, miembro destacado de la colectividad nipona, proveniente de Okinawa, quien llegó a ser presidente de esa asociación, con conexiones sociales y políticas muy poderosas.

Su intensa vida social lo relacionó con personajes de la historia nacional e incluso bautizó a George por el rito católico, eligiendo como padrinos a quienes entonces eran las máximas autoridades del país: …

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Nikkei Chronicles #7—Nikkei Roots: Digging into Our Cultural Heritage

Comida china

Mi padre llegó desde Oriente a Argentina, en la primera década del siglo XX.

En esos tiempos, Japón no se destacaba como la potencia mundial que es ahora. Él era un inmigrante pobre, huyendo de un país en guerra permanente, expansionista, dominado por los señores feudales que ignoraban a las clases bajas. Será por eso que se enamoró tan espontáneamente de nuestro país, tan generoso y, aún en esas épocas, tan abierto a la inmigración. 

Cuando mi padre se casó con mi madre, descendiente de italianos, ambos aportaron a nuestras comidas cotidianas sus propios sabores. No había pastas más ricas …

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El tazón del arroz

A los diez años, el mundo giraba dentro de mi hogar…

Siempre imaginé que todo lo que acontecía en mi vida, era lo que ocurría en todas las casas del planeta. Estaba convencida de que la gente reía en iguales ocasiones, le agradaba la misma música, se entristecía en similares circunstancias y hasta consumía alimentos idénticos a los que había en nuestra mesa…

Aún considerando lo singular de mi hogar, vivíamos en un pueblo de Argentina, mi papá era un japonés budista y mi madre una occidental católica…

Recuerdo que la comida más importante de mi casa era la cena, …

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イエス・キリストと仏陀

私は兄弟姉妹の多い大家族の末っ子だったので、生まれたとき両親に孫がいてもおかしくない状態でした。人生経験が豊富で、とても穏やかな両親に育てられたことは、私にとってプラスでした。兄や姉たちとはかなり年が離れていたので、わたしにとって彼らは親のような存在でした。私は多くの大人に囲まれ、みんなに忍耐強く見守られて成長しました。それに、1950年代頃、当時の中年は今よりかなり年老いていたと思います。その時代は生活も質素で、シンプルなものが多く、服装も地味なものが多かったのです。女性は、40代には子育てを終え、社会的な活動に参加することもあまりありませんでした。私は姉たちのような生き方をしたくありませんでした。映画女優のように賢く、常に何か発言したいと思っていました。今私は年老いてしまいましたが、今でも何かを常に伝えることは大事だと思っています。

私は幼いときから読書が大好きで、これは文学作品の愛読者だった両親の影響からきたものです。今でも覚えていますが、小学校への登校初日、父に連れられて学校へ行く道中に、父が「よかったね、これで本がたくさん読めるようになるよ、世界中の本がね」と言ったのを覚えています。両親にとっても、私にとっても、本を読むことは生活の一部で、ほんとうに時間があれば何かを読んでいました。ただ、兄たちは仕事がとても忙しく、たまにしか読んでいませんでした。

読書のおかげで想像力を磨くことができ、11歳のときに演劇作品を書きました。私は、それをもとに地区のクラスメイトとお芝居をしました。その作品に文学的価値があったのかは分かりませんが、とにかくみんなすごく楽しんでくれました。今の学校では、すべて事前に計画したものしかできないので、子ども達はこのように課外活動としてお芝居をすることはないかもしれませんが、私たちはとても充実した知的な刺激を受けることができたのです。

一方、我が家の習慣や信仰はちょっと特異だったかもしれません。日本人の父は仏教徒で、ジェノバ(イタリア)出身の子孫である母はカトリック教徒でした。母の信仰に従って子どもたちは皆が、「我々の精神のために」キリスト教の典礼に沿って洗礼を受けました。父の母に対する深い愛情と尊敬が、こうした寛容的な家庭環境を築いたのです。信仰に関しては、互いの考えを尊重し合い、母も仏陀を讃え、父はイエス・キリストを「とてもすばらしい人」だと、常に敬意を示していました。

父は、仏陀は物欲から解放されたことで自分の魂を捧げたと言っていました。そして、母は、イエスはとても質素なチュニカを着てもっと良い世界のための布教活動を行ったのだと話してくれました。両者とも、いい手本を教えてくれました。そして、単なる教訓話で終わらず自分たちの生き方で、それを示してくれたのです。

父は、誰かが我が家にあるものに関心を示すとそれをすぐにプレゼントしてしまうような人でした。だから、引っ越しする度にモノがなくなっていき、あげられるものがどんどん少なくなり、結局新たに買う羽目になったことも多々ありました。

母は、そうした物質的なものにはまったく感心がなく、必要ともしないという生き方でした。外出して買い物することはほとんどなく、いつも同じ服を上手に着こなしていました。母にとって、本のプレゼントが何よりの楽しみだったのです。我が家はみな、仏陀とキリストの教訓によって育てられたので、とても平和で寛容でした。

父が亡くなったときは、母の希望でクリスチャン、すなわち欧米の儀式によって埋葬しました。しかし、仏教徒で定められている四十九日の法要も執り行ったのです。仏教を信仰する親戚によると、死者は49日間この世と来世の間をさまよい、その期間を過ぎると天国に行くということでした。部屋の小さなナイトテーブルには父の写真が置かれ、その7週間毎日のように朝食、昼食、おやつ、そして夕食をお供えしました。私はまだ幼かったのですが、母がとても丁寧にお供えの料理を準備し、特に父の好物を選んでいたことはとても感動的でした。炊きたてのご飯と、豆の煮付け、そして魚料理は絶対に欠かせませんでした。私も、何となく父がその辺にいるのではないかと思っていました。家族のそうしたまなざしには父も大変満足していたいに違いありません。

ある日、クラスメイトが宿題をするために家に来ました。ちょうどおやつの時間だったので、母がお茶とお菓子を父のところに持っていくよう言いました。私は一緒に来るよう友達を誘ったのですが、彼女はとても驚き、部屋の入り口まではついてきたのですが、怖くなったようで中には入りませんでした。私にとって父がいるかのように振る舞うことは、とても心地よいことでした。父のジャケットはいつも通り椅子にかけてありましたし、漂うタバコの匂いは父のことを思い出させ、私は父が早く安心して天国に行けるよう願っていたのです。

その友達は、私の行動をドアから眺めていたようです。私はそのままお盆を部屋において、彼女とまた宿題に取りかかりました。そして宿題を終えた後に、父の部屋に戻り、そのお盆を下げました。キッチンに戻るとき、私はお皿に盛ってあったお菓子を食べました。それを見た友達は、あまりの驚きに恐れを隠せない状態でした。仏教の単なるしきたりであることを理解していなかったのでしょうが、そのお菓子を食べたことがあまりにも衝撃的だったようです。なんせ、彼女はその後二度とうちに遊びに来なくなりましたから。後に知ったことなのですが、学校で私の家族はちょっと「変」であると話していたらしいのです。あの体験は、少しトラウマになってしまったのかもしれません。

こうした習慣を含めて、我が家はちょっと異なった部分がありましたが、でもだからこそ他人に対してもとても寛容になることができ、習慣や風習の違いを尊重し合う大切さを学ぶことができたのです。

これまでの私の人生は、間違いなく仏陀とキリストがずっと見守ってきてくれたと思っています。信仰心が強くない私でも、二人の教えと思いやりの精神が今まで導いてくれたのです。そして、大きな災害があるたびに私はこの二人に地球と人類のご加護をお願いしています。

思うのですが、時空と場所が遭遇していれば、仏陀とキリストはきっといい友達に、すばらしい仲間もしくは同士になっていたと、確信しています。言葉が異なっていても、同じ目標と情熱が共通していたに違いありません。

 

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Nikkei Chronicles #4—Nikkei Family: Memories, Traditions, and Values

父の冒険

父タツゾウ・トミヒサ(Tatsuzo Tomohisa)は、毎日午後になると家の前の歩道に出て入り口に座るのが日課でした。静かに道路を眺めていると、近所の子供たちが待ち構えていたかのように寄ってくるのでした。子供が好きだった父はみんなを嬉しそうに笑顔で迎え、いろいろな話を語り聞かせました。父の話を楽しみにしていた子供たちは飽きることなく夢中になってそれを聞いていました。

父の故郷はとても遠く、私たちはあの広い海(太平洋)をどのように渡ったのか興味津々でした。私たちがそのことを聞くと、父は記憶にあるいろいろな秘話を、感情を込めていっぱい話してくれました。

私たちは静かに、父の記憶から溢れ出すことを待ちました。その逸話は、ときには笑いを誘い、ときには悲しみに打ち沈み、ときには驚きから恐怖に追い込みました。こうした話を聞く度に、私たちは無意識のうちに父の世界に吸い込まれ、そうした話をしてくれる父に感謝の気持ちを抱きました。父の話し方は、私たちの心をつかみ、そのすばらしい体験を共有しているかのように感じることができたのです。ただの冒険談とはいえ、ときにはすごく気難しい顔をして話す父を見て、私たちは息をのんでその厳しい状況をなんとか無事に切り抜けてほしいと必至に願ったものです。

父の話を聞くとき、私たちは目をぱっちり開き、いつもドキドキしていました。話の世界に入り込み、ワクワクし、まるで自分たちも同じ体験をしているかのような錯覚にとらわれ、その世界を支配している気分を味わえたからです。

一度父は次のような冒険話をしてくれました。船で長旅を終え、ペルーの港に上陸した父は、その後特にどのようにしたらいけるのかも分からないまま、ジャングルの奥深くに入ることにしました。そこには、それまで見たことがない植物や匂いがし、不気味な音が聞こえ、さらには様々な動物がいました。かなりの距離を歩き、日は暮れはじめました。そろそろ宿泊できる集落はないかと思いながら、歩みを速めました。そんな時、突然、キーキーという変な声が聞こえたのです。振り返ると、そこにはとてつもなく大きなイノシシが立っていました。気がつくと、自分に向かって突進してくるではありませんか。凶暴なイノシシを遠ざけようと、とにかく全力で走り去り、茂ったイナゴマメの木に登りました。その時、数少ない所持品が入っていたバックを落としてしまいました。木に登った父は、頑丈そうな二股の幹を見つけ、とりあえずそこで待機することにしました。イノシシは鼻息を荒だてながら、ときにはキーキー声を発し、そうとう怒ってる様子でした。牙で威嚇しながら、最後には木にあがろうとしてふた足で立ち、匂いを嗅ぎまわりました。数時間後、さすがのイノシシも疲れ果てたのか、その木の下で寝てしまいました。父はその姿をみるとますます怖くなり、そこからどのように逃れるか考えました。

日が暮れると、イノシシは深い眠りに落ちていました。父も、朝から歩いて疲れきっていたので、茂った枝の間で寝ることにしました。日が昇り、淡い陽の光を浴びた父は目を覚ましました。下を見るとイノシシはまだ寝ていましたが、動く気配はありません。これは逃げる唯一のチャンスだと思い、ゆっくりと木から下り、そっとイノシシの横を通り必至に走り去りました。小さな丘を超えると、ビーチが見えました。父は、その方向に駆け下りすばやく水の中に飛び込んだのです。イノシシが追いかけてくる様子はありませんでしたが、とにかく反対側の岸までたどり着こうと、すばやく泳ぎました。その時、父はバックを忘れてしまったことに気づきました。数少ない所持品でしたが、命あっての自分なので仕方がないとあきらめ、近くに集落がないかと歩き続けました。野生のフルーツや実を食べながら生き抜き、ようやく複数の小屋を見つけました。そして肌が浅黒く、滑らかな話し方をする住民に出会いました。なんと、そこはボリビアで、父の最終目的地であるアルゼンチンにかなり近づいているということが分かったのです。

父は日本を恋しく思っていた移住者でしたが、移住者としてきちんと根をおろし、自分の仕事で大家族を養うことを心がけていました。ただ当時の世界情勢は父に大きな試練を突きつけたのです。1950年代のアルゼンチン社会には差別と排斥がはびこっており、私たちの国はアメリカ寄りの政策をとっていたため、日本人である父は仕事にありつくことも叶いませんでした。腕のいい床屋でしたが、街唯一の床屋はいつも繁盛したいたにもかかわらず、父を雇うことはしませんでした。

日本は悲惨な戦争で敗北し、他方アルゼンチンはアメリカの勝利を歓迎しました。日本人移住者は、日本の壊滅に対する絶望の中、地元社会からも拒否されてしまったのです。

父は無限の忍耐で疎外される現実を受け入れ、結局親戚のクリーニング店で仕事をしながら生涯を終えました。その収入だけでは満足に生計を維持できなかったため、釣り用の網や鉛を製作し、販売しました。また、たくさんの鶏を飼っていたので、その卵を近所の方々に売っていました。そうした副業をしても十分な所得を得ることはできず、思春期だった姉たちも仕事に出なければなりませんでした。しかし、そのことがかえって父を苦しませ、うつ病が深刻化してしまいました。男としてのプライドが傷つき、日本男児として堪え難い屈辱だったに違いありません。

それ以後、父の活気と体力は衰えるばかりで、父の話しは戦争で敗北したストリーや長い人生経験での困難や挫折のことばかりでした。そこには、勇敢な英雄や、名誉をかけて戦って凛とした人物の存在はありませんでした。このような結論はとても残念ですが、父はいかなる武器も手にせず降参してしまったのかも知れません。

 

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このエッセイは、「ニッケイ・ファミリー」シリーズの編集委員によるお気に入り作品に選ばれました。こちらが、編集委員のコメントです。

エンリケ・ヒガ・サクダさんからのコメント

この「父の冒険」を読みながら、自分までもが子供のようにそのお父さんの横にすわって面白い話を聞きながら感動し、たくさんの刺激を受けている場面を想像してしまいました。特に、あのタツゾウさんがイノシシに追いかけられ、逃げながら必至に木にのぼり、その後川に潜っているところは、映画を観ているかのように想像しないわけにはいきませんでした。自分までが息を殺して必至に逃げ、そのイノシシに追いつかれないように祈っているようでした。

後の苦労や落胆が彼の人生に大きく影響したようですが、私はあの海を渡ったたくましい移住者のイメージを救いたい。また、複数の国をまたがって過酷な移動をやり遂げ、あのジャングルで生き延びたことはそう誰でも成し遂げることはできない体験だと思います。そのように情熱的に未来に掛けた人ですが、このお父さんの壮絶かつ感動的な人生に拍手を送りたい。

 

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