ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/9/15/las-aventuras-de-papa/

父の冒険

父のタツゾウ・トミヒサ

父タツゾウ・トミヒサ(Tatsuzo Tomohisa)は、毎日午後になると家の前の歩道に出て入り口に座るのが日課でした。静かに道路を眺めていると、近所の子供たちが待ち構えていたかのように寄ってくるのでした。子供が好きだった父はみんなを嬉しそうに笑顔で迎え、いろいろな話を語り聞かせました。父の話を楽しみにしていた子供たちは飽きることなく夢中になってそれを聞いていました。

父の故郷はとても遠く、私たちはあの広い海(太平洋)をどのように渡ったのか興味津々でした。私たちがそのことを聞くと、父は記憶にあるいろいろな秘話を、感情を込めていっぱい話してくれました。

私たちは静かに、父の記憶から溢れ出すことを待ちました。その逸話は、ときには笑いを誘い、ときには悲しみに打ち沈み、ときには驚きから恐怖に追い込みました。こうした話を聞く度に、私たちは無意識のうちに父の世界に吸い込まれ、そうした話をしてくれる父に感謝の気持ちを抱きました。父の話し方は、私たちの心をつかみ、そのすばらしい体験を共有しているかのように感じることができたのです。ただの冒険談とはいえ、ときにはすごく気難しい顔をして話す父を見て、私たちは息をのんでその厳しい状況をなんとか無事に切り抜けてほしいと必至に願ったものです。

父の話を聞くとき、私たちは目をぱっちり開き、いつもドキドキしていました。話の世界に入り込み、ワクワクし、まるで自分たちも同じ体験をしているかのような錯覚にとらわれ、その世界を支配している気分を味わえたからです。

一度父は次のような冒険話をしてくれました。船で長旅を終え、ペルーの港に上陸した父は、その後特にどのようにしたらいけるのかも分からないまま、ジャングルの奥深くに入ることにしました。そこには、それまで見たことがない植物や匂いがし、不気味な音が聞こえ、さらには様々な動物がいました。かなりの距離を歩き、日は暮れはじめました。そろそろ宿泊できる集落はないかと思いながら、歩みを速めました。そんな時、突然、キーキーという変な声が聞こえたのです。振り返ると、そこにはとてつもなく大きなイノシシが立っていました。気がつくと、自分に向かって突進してくるではありませんか。凶暴なイノシシを遠ざけようと、とにかく全力で走り去り、茂ったイナゴマメの木に登りました。その時、数少ない所持品が入っていたバックを落としてしまいました。木に登った父は、頑丈そうな二股の幹を見つけ、とりあえずそこで待機することにしました。イノシシは鼻息を荒だてながら、ときにはキーキー声を発し、そうとう怒ってる様子でした。牙で威嚇しながら、最後には木にあがろうとしてふた足で立ち、匂いを嗅ぎまわりました。数時間後、さすがのイノシシも疲れ果てたのか、その木の下で寝てしまいました。父はその姿をみるとますます怖くなり、そこからどのように逃れるか考えました。

日が暮れると、イノシシは深い眠りに落ちていました。父も、朝から歩いて疲れきっていたので、茂った枝の間で寝ることにしました。日が昇り、淡い陽の光を浴びた父は目を覚ましました。下を見るとイノシシはまだ寝ていましたが、動く気配はありません。これは逃げる唯一のチャンスだと思い、ゆっくりと木から下り、そっとイノシシの横を通り必至に走り去りました。小さな丘を超えると、ビーチが見えました。父は、その方向に駆け下りすばやく水の中に飛び込んだのです。イノシシが追いかけてくる様子はありませんでしたが、とにかく反対側の岸までたどり着こうと、すばやく泳ぎました。その時、父はバックを忘れてしまったことに気づきました。数少ない所持品でしたが、命あっての自分なので仕方がないとあきらめ、近くに集落がないかと歩き続けました。野生のフルーツや実を食べながら生き抜き、ようやく複数の小屋を見つけました。そして肌が浅黒く、滑らかな話し方をする住民に出会いました。なんと、そこはボリビアで、父の最終目的地であるアルゼンチンにかなり近づいているということが分かったのです。

父は日本を恋しく思っていた移住者でしたが、移住者としてきちんと根をおろし、自分の仕事で大家族を養うことを心がけていました。ただ当時の世界情勢は父に大きな試練を突きつけたのです。1950年代のアルゼンチン社会には差別と排斥がはびこっており、私たちの国はアメリカ寄りの政策をとっていたため、日本人である父は仕事にありつくことも叶いませんでした。腕のいい床屋でしたが、街唯一の床屋はいつも繁盛したいたにもかかわらず、父を雇うことはしませんでした。

日本は悲惨な戦争で敗北し、他方アルゼンチンはアメリカの勝利を歓迎しました。日本人移住者は、日本の壊滅に対する絶望の中、地元社会からも拒否されてしまったのです。

両親と二人の兄

父は無限の忍耐で疎外される現実を受け入れ、結局親戚のクリーニング店で仕事をしながら生涯を終えました。その収入だけでは満足に生計を維持できなかったため、釣り用の網や鉛を製作し、販売しました。また、たくさんの鶏を飼っていたので、その卵を近所の方々に売っていました。そうした副業をしても十分な所得を得ることはできず、思春期だった姉たちも仕事に出なければなりませんでした。しかし、そのことがかえって父を苦しませ、うつ病が深刻化してしまいました。男としてのプライドが傷つき、日本男児として堪え難い屈辱だったに違いありません。

それ以後、父の活気と体力は衰えるばかりで、父の話しは戦争で敗北したストリーや長い人生経験での困難や挫折のことばかりでした。そこには、勇敢な英雄や、名誉をかけて戦って凛とした人物の存在はありませんでした。このような結論はとても残念ですが、父はいかなる武器も手にせず降参してしまったのかも知れません。

 

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このエッセイは、「ニッケイ・ファミリー」シリーズの編集委員によるお気に入り作品に選ばれました。こちらが、編集委員のコメントです。

エンリケ・ヒガ・サクダさんからのコメント

この「父の冒険」を読みながら、自分までもが子供のようにそのお父さんの横にすわって面白い話を聞きながら感動し、たくさんの刺激を受けている場面を想像してしまいました。特に、あのタツゾウさんがイノシシに追いかけられ、逃げながら必至に木にのぼり、その後川に潜っているところは、映画を観ているかのように想像しないわけにはいきませんでした。自分までが息を殺して必至に逃げ、そのイノシシに追いつかれないように祈っているようでした。

後の苦労や落胆が彼の人生に大きく影響したようですが、私はあの海を渡ったたくましい移住者のイメージを救いたい。また、複数の国をまたがって過酷な移動をやり遂げ、あのジャングルで生き延びたことはそう誰でも成し遂げることはできない体験だと思います。そのように情熱的に未来に掛けた人ですが、このお父さんの壮絶かつ感動的な人生に拍手を送りたい。

 

© 2015 Marta Marenco

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このシリーズについて

ニッケイ・ファミリーの役割や伝統は独特です。それらは移住した国の社会、政治、文化に関わるさまざまな経験をもとに幾代にもわたり進化してきました。

ディスカバー・ニッケイは「ニッケイ・ファミリー」をテーマに世界中からストーリーを募集しました。投稿作品を通し、みなさんがどのように家族から影響を受け、どのような家族観を持っているか、理解を深めることができました。

このシリーズのお気に入り作品は、ニマ会メンバーの投票と編集委員の選考により決定しました。

お気に入り作品はこちらです。

  編集委員によるお気に入り作品:

  • スペイン語:
    父の冒険
    マルタ・マレンコ(著)

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執筆者について

マルタ・マレンコ氏は、1945年に7人兄姉の末っ子として父タツゾウと母エステルのもとに生まれた。父を9歳の時にんなくした。母は、イタリアのジェノバ出身の子孫。アルゼンチンの北部で育ち、後に職を求めてブエノスアイレスに転住し、それぞれがブエノスアイレスで家族を築いた。夫はアルゼンチン人の獣医で、すばらしい二人の息子はメキシコに住んでいる。現在リタイヤして年金生活者の人生をエンジョイしている。

(2015年9月 更新)

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