アケミ・キクムラ・ヤノ

(Akemi Kikumura Yano)

Akemi Kikumura Yano is a Visiting Scholar at the University of California at Los Angeles, Asian American Studies Center.  She holds a Ph.D. in anthropology from UCLA and is an award-winning author, curator, and playwright, best known for her book Through Harsh Winters:  The Life of an Immigrant Woman.

Updated February 2012

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Encyclopedia of Nikkei Migration

日系アメリカ移民略史

1885年から1924年にかけて、約20万人の日本人がハワイに、また18万人が合衆国本土に移民しました。そのほとんどは干ばつ、飢饉、人口過多に苦しむ日本南部の県の出身者でした。

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ハワイでは初期の一世達はサトウキビ農場で働きました。本土に着いた移民達はアラスカの鮭缶詰工場、ユタの鉱山キャンプ、オレゴンの製材所や、カリフォルニアの農園へ送られました。

人種差別

日系人の生活にはいつも人種主義の影がつきまとい、これが結果として1907年から1908年の日米紳士協定の形となり、労働者は新たに合衆国に入国できなくなってしましました。

その後何十年かたつうちに、独身の男性がほとんどを占めていた日系人コミュニティは、家族中心になりました。この間一世は農業部門で成功を収めましたが、新たに反日主義の風にもさらされることになりました。

1922年に市民権を取る権利を拒否され、1924年には日本からの移民は断絶し、日系社会に大きな打撃を与えました。これらの規制は1952年まで続きました。

第2次世界大戦:強制収容と軍功

第2次世界大戦が始まると、西海岸に在住していた日系人は強制退去と強制収容の憂き目にあいました。合衆国への忠誠心を証明しようと、多くの合衆国生まれの男子は陸軍や諜報部で兵役を務めました。彼らの英雄的な活躍のおかげで、二世たちは人種の壁を破り、戦後、社会的地位を大きく上昇させました。ハワイでは二世の帰還兵はその政治力を大きく向上させ、1959年には州レベルの公職に就くまでになりました。

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補償運動

1980年代には、若い三世たちが、二世と共に、戦時中に収容者になされた不正行為に対して賠償を請求するようになりました。賠償運動は長期にわたる闘争となりましたが、最後には1988年に賠償法の制定につなげることができました。今日の日系アメリカ人社会はいままでになく多様化しています。コミュニティの境界線も変わり、自分で自分を日系人と定義する人も変わってきました。新たに移民して来る日本人や、異人種間結婚によって人種的にも多様化してきた日系社会ですが、その強い団結には変わりはありません。

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出典:

キクムラ=ヤノ、アケミ編 『アメリカ大陸日系人百科事典ー写真と絵で見る日系人の歴史』 明石書店、2002年。

 

* 共同制作: ハワイ大学マノア校社会科学研究所オーラルヒストリーセンター, カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究センター

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日系ペルー移民略史

ペルーの日系人の物語は1899年に始まります。日本からやって来た最初の移民の集団は中央沿岸部の渓谷地帯の砂糖や綿農園で働きました。その多くはやがてリマやカリャオの都市部へ移動し、散髪屋やレストランなど、小さな商売を営むようになります。それは1920年代の前半のことでした。

農村から都市への移住

1924年から1936年にかけて、日本人移民の第2の波が訪れますが、この時には農場よりも都市部へ向かい、移民達は商売や、近郊農業での可能性を追求しました。1920年代に向けて、リマでは日系コミュニティが目立ってまとまりを見せるようになりました。このエスニックコミュニティの強固さがかえって災いし、日系コミュニティは嫉妬の目で見られ、差別されるようになりました。これが、母国日本がアジアで軍事的侵略を展開するにつれ、さらにその度合いを増し、1936年には日本人移民は断絶、1940年5月にはリマで反日暴動が起こります。

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第2次大戦:海外への強制収容と本国での制限

太平洋戦争が始まると状況はさらに悪化。ペルー政府は米国政府と協調し、1800名の日系の非戦闘員を北米に移送しました。このうちほとんどの人は戦後日本へ強制送還されました。ペルーに残った日本人には厳しい制限が課され、私有財産の没収など大変な目に会いました。1947年に戦中の制限が廃止されると、日系コミュニティは日本協会や日本語学校などを再建し少しずつかつての活況を取り戻していきました。

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経済回復と同化

1950年代から60年代にかけて、日系コミュニティはさらにその経済力を回復し、ペルー社会への同化を進めていきます。日系人で専門職に就く人の数が増え、異人種間の結婚ももはや珍しいことではなくなりました。日系社会の同化を示す頂点は、1990年のフジモリ大統領の当選ではないでしょうか? また1990年代にはペルーの困難な経済事情を反映して、多くの日系労働者が日本へ渡るようになりました。

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出典:

キクムラ=ヤノ、アケミ編 『アメリカ大陸日系人百科事典ー写真と絵で見る日系人の歴史』 明石書店、2002年。

 

* 共同制作: 日系ペルー文化基金、日本人ペルー移民記念博物館

 

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日系パラグアイ移民略史

公式のパラグアイへの日本人移民の歴史は、最初の移民集団が農業定住者として到着した1936年までさかのぼることができます。最初の農業定住者134世帯がラコルメナに落ち着きました。なかにはもっと良い機会や仕事を求めて他の都市や国へ移った人たちもいましたが、マラリアの流行、自然災害、戦時中の社会、教育活動の制限などの困難に直面しつつもラコルメナにとどまった人達もいました。

 

戦後:日本人移民の流入

その次に日本人移民が多くパラグアイにやって来るようになったのは、1950年代の初めにパラグアイが戦災に打ちひしがれる日本のたまにその門を開いたときでした。1953年に日芭拓殖組合は多くの日本人がパラグアイ南部のフェデリコチャベス、ラパス(旧フラム)、フジに定住するのを援助しました。また日本海外移住振興会社は1959年からイタプア市に農業移住地を開拓しました(サンタロサ、引き継いでフジ、ラパス)。 これらの移住地は地元の農業発展に大きな成功を収めたため、パラグアイと日本の両国政府は移民協定を結び、1959年から1989年までの間に8万5000人の農夫を日本からパラグアイに移住することが許可されました。しかし、日本の経済が1960年代に回復したため、その30年間に実際にパラグアイに移民したのは7000人にすぎませんでした。

 

ピラポとイグアズ移住地

この協定によってやってきた第3の日本人移民の集団はパラグアイ南東部のピラポとイグアズ移住地に入植し、大豆・小麦・果樹栽培業、牧畜業に従事しました。移住地は日本政府から多額の経済援助を受けました。この固い絆によって一世と多くの二世は自分たちを日本人として強く意識し、日本の文化的価値、習慣と言語を維持しています。

出典:

キクムラ=ヤノ、アケミ編 『アメリカ大陸日系人百科事典ー写真と絵で見る日系人の歴史』 明石書店、2002年。

 

* 共同制作: パラグアイ日系センター

 

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日系メキシコ移民略史

1897年5月10日、最初の日本人移民がチアパス州でコーヒー農園を始めるためにメキシコに到着しました。この試みは失敗に終わりましたが、この移民達の多くは地元の女性と結婚し、メキシコへの日本人移民の礎を築きました。

この初期の移民達と異なり、1901年から1907年にかけてメキシコ北部から中部にやってきた日本人は主にデカセギ労働者でした。彼らは移民会社を通じて鉱山、鉄道、農場などと契約しました。この労働者たちの大部分はメキシコを足場にして米国へ再移民しました。これは1907年3月に米国が日本人のメキシコからの流入を禁止した後でもやむことはありませんでした。

1910年代には北部メキシコとメキシコ市において、安定した日系コミュニティが発達しました。

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第2次大戦:強制転住

しかし、太平洋戦争が始まると、1942年にバハカリフォルニア州に住む日本人は全員メキシコ市かグアダラハラへ移るよう命令が下されました。住み慣れた家を離れ、とまどいながら、移住者たちはメキシコ市共栄会の援助で家や仕事を見つけました。

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農業から都会の小規模経営へ

戦後メキシコの日系コミュニティで大きな変化が起こりました。日系人の大半はメキシコ市とグアダラハラに集中したままで、彼等は職業を農業から都会の小規模経営へと切り替えました。メキシコが彼等の永住地になりました。

戦後の日系コミュニティは派閥争いや分裂を起こしましたが、1950年代半ば以降は日墨協会が主要な役割を演じ、コミュニティをまとめました。その結果日墨会館が建設され、後には新たに二世の指導の下、メキシコ・日本文化協会が生まれました。今日では若い日系メキシコ人が、メキシコの多文化社会でより重要な役目を負うと同時に、日本移民の過去の遺産を継承しさらに発展させ続けています。

出典:

キクムラ=ヤノ、アケミ編 『アメリカ大陸日系人百科事典ー写真と絵で見る日系人の歴史』 明石書店、2002年。

 

* 共同制作: 日墨協会

 

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日系チリ移民略史

1910年から1940年の間、チリに入国する日本人移住者の数は900人を超えることは決してありませんでした。専門職を持つ人やビジネスマン、近隣諸国から入って来る労働者など、チリにやって来た日本人の経歴は実に多彩でした。日本人が主に定住したのは硝石の豊富な北部と、中部のバルパライソとサンチアゴに多く集まりました。日本人はいろいろな職に就きました。サラリーマンになったり、小さな商売、特に散髪業に従事した人もいました。初期の移民は圧倒的に男性でした。日本人移民男性のほとんどはチリ女性と結婚しました。誕生した二世は「チリに住むのだから、チリ人になる」ようにという信念の下に育てられました。

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太平洋戦争・第2次大戦の影響

でも、太平洋戦争が起こると、反日感情が高まり、日系人のチリ社会への同化過程が妨げられました。1943年の初めから、数十名の日系人が銅鉱山などの戦略的重要地区から内陸部へと強制的に移住させられました。日系人は戦争中の敵対的態度に対処するためお互い支え合って、日系コミュニティは団結を強めました。この団結は戦後、Sociedad Japonesa de Beneficencia “Nikkei-Chile” (チリ日系慈善協会)という形で組織化されました。

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日系チリ人の将来は?

1990年代までには、日系チリ人はチリ社会で中流階級の地位を獲得し、高い教育を受け、ホワイトカラー職に就くようになっていました。日系人口の多い他のラテンアメリカの国とは異なり、デカセギとして日本に出かけたのは日系人口の5%にも達していません。日系人口が少ないことと団結がなく、混血が多いことが、日系チリ人の将来に影を投げかけています。

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出典:

キクムラ=ヤノ、アケミ編 『アメリカ大陸日系人百科事典ー写真と絵で見る日系人の歴史』 明石書店、2002年。

 

* 共同制作: チリ日系慈善協会

 

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