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アケミ・キクムラ・ヤノ

(Akemi Kikumura Yano)


アケミ・キクムラ・ヤノは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究センターの客員研究員です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で人類学の博士号を取得しており、受賞歴のある作家、キュレーター、劇作家でもあります。著書『過酷な冬を乗り越えて:移民女性の人生』で最もよく知られています。

2012年2月更新


この執筆者によるストーリー

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その25

2011年6月20日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その241922年11月13日、連邦最高裁判所は「非白人」である小沢には市民権の授与資格がないとして敗訴を言い渡した。以下がその判決文の一節である。 「控訴人(小沢)のために指摘するが、この定義(自由白人)には1790年当時の(帰化)法立案者が考えていたままの意味が適用されるべきで、それは即ち、この国に居住していたアフリカ系黒人種、またインディアンを(市民権から)除外する目的で用いられた定義だった。これら2人種だけを当時は除外の対象としていたというのはあるいは真実…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その24

2011年6月13日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その23帰化権問題一世たちは「帰化不能外国人」と帰化法で決めつけられ、アメリカ社会の一員として平等に生活する権利を否定されていた。その法定義に異議を唱え、帰化権を求めて闘った一世に別所南洋がいた。彼は1898年にアメリカ海軍に志願し、米西戦争、第一次世界大戦に参戦したばかりか、マッキンレー、ルーズベルト、タフトという3人の大統領の個人給仕としても働いた。 1910年、別所は外国籍アメリカ軍人を対象とする特別法(1894年制定)のもとに帰化申請を行なった。その法律に…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その23

2011年6月6日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その22安孫子久太郎;新聞発行人、銀行家、一世農業コロニー創始者アメリカ本土で最も尊敬を集めた一世指導者は、安孫子久太郎だった。彼は、大陸で最多の購読者を持っていた「日米新聞」の経営者兼発行人として、一世のアメリカ生活、また人種関係についての考え方に大きな影響を与えた。 彼は、一世が当初持っていた出稼ぎ根性が社会の様々な問題の根源で、同時に白人の日本人非難をも生みだしていると見ていた。したがって反日運動を抑えるためには、一世が出稼ぎ根性を捨て、アメリカに骨を埋める…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その22

2011年5月30日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その21平等な権利を求めて一世たちはお互いに助け合い、暮らしの糧を自分たちのコミュニティーに見いだしていたが、彼らの周囲では常に排日の嵐が吹き荒れていた。「劣等人種を制限せよ」とか「アメリカとカナダは白人の国のままに!」などの人種差別的な主張が相次ぎ登場した。1905年の新聞の見出しには、「日本人はアメリカ人女性への脅威」とあり、カリフォルニア州選出上院議員ジェームス・D・フェランは次のように警告した。「ねずみ(日本人)は穀物倉庫の中にいる。奴らはドアの隙間を抜け出て、…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その21

2011年5月23日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その20創造力溢れる心一世たちは、厳しい毎日の生活の中にも芸術を楽しむ時間を見いだしていた。町には伝統的な踊りや歌を習い披露したり、三味線、琴、尺八、琵琶などを演奏する同好会がつくられた。ハワイでは、沖縄古典演芸が人気を集め、中でも三線と呼ばれる伝統楽器の演奏家で師匠でもあった、ナカガネク・コスケ(1908-1900)は、とりわけ有名だった。 またハワイでも本土でも素人劇団が結成され、劇場やホール等で狂言、新派、歌舞伎などを演じた。 どの一世コミュニティーでも人気が…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その20

2011年5月16日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その19コミュニティーの行事移民生活初期、最も重要視された社会行事は11月3日の天長節(明治天皇誕生日)だった。当初、ハワイの砂糖きび耕地では天長節を休日と認めなかったが、一世労働者は勝手に仕事を休み、飲めや歌えやのお祝いをした。彼らは三味線をかき鳴らし、夜通し食べたり踊ったりして過ごした。1結局1890年代中期までに、耕地主は日本人労働者が天長節を祝う権利を契約書に盛り込まざるをえなくなった。 しかし、天長節を除けば、一世にとっては誕生日より葬式が大切だった。彼…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その19

2011年5月9日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その18一世コミュニティーハワイにおいてもアメリカ本土においても、一世は独自の病院、教会、新聞、その他様々な社会 文化 経済の団体を組織していた。彼らは、私たちのコミュニティーに安らぎと友情を見いだし、アメリカで生き延びるために協力、相互扶助を行ったのである。 親族を日本に残してきた一世にとって、遠縁の親戚、同県出身者、さらには日本人社会全体が「家族」同様の存在であった。一世たちの結束は、白人社会と何らかの交渉を持つ際に特に強固なものとなった。日本人移民にとって、白人…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その18

2011年5月2日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その17二世の成長アメリカ生まれの二世の誕生は、多くの日本人移民家庭にとって運命の転換点となった。子供のために、一世は1ケ所に定住するようになった。たとえば、カリフォルニア州コーテスのある一世農民は、子供たちを1年中同じ学校へ送りたいという願いから、精一杯働いて定住を目指したと回想している。1 吾子三人健やかに育つアメリカを旅の住居と吾れ言わなく2 子供たちは大きくなるにつれ農業や商売の手伝いをし、家の雑用や弟妹の面倒も見た。真子オサメの子供たちは、放課後、…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その17

2011年4月25日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その16女性と労働一世女性達がアメリカの家に来ると待っていたのは重労働であった。ほとんどの一世家庭には、女性を家事専門にするだけの経済的余裕はなかった。街に住む女性たちは女中、皿洗い、縫い子、あるいは洗濯女として働いた。地方の女性は、夫達と共に畑で土を掘り起こし、種を蒔き、草をむしり、水を引き、刈り入れをする毎日だった。 一世が居を構えた所では、女性たちは生活向上のために重要な役割を果たした。アメリカで生き残るには、夫婦二人の努力が不可欠であり、一世女性の収入がその家…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その16

2011年4月18日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その15 アメリカ政府は写真結婚を法的に認めなかったため、ハワイでは女性たちが到着すると直ちに移民局、ホテルのロビー、教会、波止場などで集団結婚式が挙げられた。牧野金三郎は「布哇報知」創刊号で、この流れ作業のような結婚式に意義を唱えた。「個人の自由と権利が許され、信教の自由が認められているならば、人間一生の最大事である結婚式こそ、夫婦となって家庭生活の第一歩を踏み出そうとする人たちの、希望する宗教の司式に任すべきである。」1 結局、日本人社会の度重なる抗議で集団結婚式は…

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