ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2023/8/18/yugo-tomita/

トラックドライバーに憧れて高校で米留学、移民法弁護士の冨田有吾さん

階級社会アメリカを体感

独立して22年、今はウエストロサンゼルスに事務所を構える冨田弁護士。

日本から渡米し、アメリカに根を下ろして活躍する数多くの新一世に取材してきた。今回、縁があって取材が実現した移民法弁護士の冨田さんの渡米理由はユニークだ。ロサンゼルスで日本語を話す弁護士が所属する事務所として常に名前が挙がる冨田法律事務所の代表の冨田さん、「アメリカで弁護士になる」という夢を抱き留学してきたのかと思ったら、留学を決行したきっかけは「トラックドライバーになること」だったと言うのだ。

「実家は大阪で、お寺に納めるお守りを作る工場を経営していました。アメリカとのつながりは全くなかったのですが、アメリカに憧れていた親父が、家で英会話のテープを聴いて勉強したりしていました。私自身は中学の頃にトラックドライバーを描いたアメリカ映画『コンボイ』を見たのが、渡米のきっかけとなりました。高校に進学したけれど男子校だったし(笑)、ここにいても何もいいことはないと思うようになったんです。それで、学校に貼ってあった交換留学の告知を見て、家族に相談し、ユタ州の高校に留学しました」。

ユタ州ソルトレイクシティーではモルモン教徒の白人家庭に1年間滞在。留学期間を終えて日本に帰ったが、アメリカに対しては消化不良のような気持ちが残った冨田さんは、日本の高校を退学し、今度はフロリダの高校に再留学した。

「フロリダではキューバ移民の家庭にホームステイ、高校はキューバ人や黒人が多く、初めてアメリカの階級社会的な側面を体験しました。やはり貧困層は生活も苦しく差別されていて、どう考えても肌の色は(貧困に)関係していると感じました。当時は今のカリフォルニア州のようにランチは無料ではなく、友達のほとんどがランチを食べていませんでした」。

マイノリティーこそ法律家に

アメリカの多面性を肌で感じた後に高校を卒業して帰国したが、1980年当時、アメリカの高卒資格だけでは日本では中卒扱いとなり、就職は難しく、進路は限定されていた。そこで冨田さんは三度、北カリフォルニアの短大に留学し、そこでの哲学の助教授との出会いによって将来が変わることになる。

「その先生はユダヤ人に対する迫害の話もしていて、アメリカではマイノリティーが法律家になった方がいい、と主張していたのです。そして、『お前のような外国人はアメリカで弁護士になるべきだ』とも言われて、本当になれるのかと思いながらも、まずは挑戦してみようという気持ちになりました」。

北カリフォルニアの短大時代のハロウィーン。右から2人目が冨田さん。その左隣は同じく日本からの留学生で、現在は冨田さんの妻である三佳さん。

そこで、冨田さんはボストン大学に進学し、哲学と政治学を専攻して卒業した後、ロースクールの試験に挑戦するも不合格となったため、一旦クレアモント大学の大学院に進学した。その後、ロサンゼルスの法律事務所に就職が決まり、大学院を続けながら同事務所で勤務したが2年半後にレイオフされ、友人のテレビ関係の会社に転職、仕事をしながらロースクールの試験に合格し、昼は仕事、夜はロースクールに通いながら弁護士を目指した。試験に受かって晴れて弁護士になったのは31歳の時だった。

「日本のように周囲の皆とペースを合わせて進んでいくということがアメリカではありません。自分で進路を決めて、全て自己責任で取り組んでいかなければならないのがアメリカです。ただ、私は高校2年でアメリカに来たので、人の何倍も努力しなければ道は開けないのだということをこの国で学びました。いわば、アメリカで自分の人格が形成されたのだと思っています」。

ガレージをオフィスに独立

日系アメリカ人の弁護士が経営する事務所で弁護士人生をスタートした冨田さんは、35歳の時に転機を迎える。

「2001年に独立したのです。でも、実は独立しようと思って(独立)したわけではありません。その時在籍していたローファームのパートナーが引退するので、事務所を解散することになったからです。その前の年の12月に長男が産まれていて、妻は子育てのために会計事務所でのアカウンタントとしての仕事を退職したばかりでした。そのすぐ後に事務所が解散になってしまったのですが、正直、次の就職先を探す時間がありませんでした。そこで、自宅のガレージで冨田法律事務所を開きました。オフィスを借りるお金がなく、まさに当時は自転車操業でした。オフィスを借りられるようになったのは4年後。最初の3年はずっと1人で事務所を回していたのですが、ガレージでやっていた最後の1年は友達の奥さんが手伝ってくれるようになっていました。その方が社員1号で今も働いてくれています」。

夢は今もトラックで大陸横断

移民法弁護士として法人、個人の移民ビザを手がけている冨田さんに、弁護士としてのモットーを聞いてみた。

「自分も移民なので、単に法律や手続的なことだけでなく、常にクライアントの生活を頭に思い浮かべて業務に取り組んでいます。現在は日系企業の駐在員のビザ申請を主に扱っていますが、20年以上前に事務所を立ち上げた時には日本人留学生のクライアントも多く、申請が認められなかったら日本に帰国しないといけない、日本では仕事が見つかるだろうかなどと毎日心配していました。そのため、できることは全てするということを自分のモットーにしてきました。現在でも、駐在員の子どもで、日本語よりも英語がネイティブになっているケースなどで、親が日本に帰任する際に、子どもが日本の生活に対応できるのかと心配になります。そのため、米国で留学生になるオプションや就労ビザのオプションも含めて、総合的にアドバイスするようにしています。これはあくまで一つの例ですが、移民の社会や生活を知らないアメリカ人弁護士よりも(移民としてアメリカで生活してきた)弁護士として親身になってアドバイスができると思います」。

最後にこれからのビジョンを聞くと意外な答えが返ってきた。

「ラッキーなことに自分よりも20歳も若い比嘉(比嘉恵理子弁護士)が共同経営に参加してくれたので、比嘉のビジョンを応援すると共に、子どもも大きくなり自分の時間が持てるようになったので、これから大型トラックの免許に挑戦するつもりです。今のタイムラインでは、自動運転のトラックが登場してくるはずなので、自動運転のトラックを買って、全米を移動したいです。今からワクワクします」。

アメリカ大陸を横断する大型トラックの運転手に憧れて渡米してから40年超、弁護士として多くの日本人をサポートしてきた末に、冨田さんは今、最初の夢を果たそうとしている。


Tomita Law Office(冨田法律事務所):ウェブサイト 

 

© 2023 Keiko Fukuda

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執筆者について

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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