軍事のため人道に反した研究で精神を病んだ帝国大学医学部出身の茨木智和を主人公に、戦争を挟んでみ日本をはじめ、オーストラリアの日本人街や収容所を舞台に、茨木の心の葛藤や生き方を描いた小説『暗闇の後で 豪州ラブデー収容所の日本人医師』(原題は『After Darkness』2014年刊)が、2023年夏日本でも出版された。本書については前回の本コラムで紹介したが、日本とオーストラリアにルーツのある著者のクリスティン・パイパー(Christine Piper)氏に、本誕生の経緯やオーストラリアと日系について聞いた。
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オーストラリアの日本人移民に興味
——『暗闇の後で』を書こうと思ったきっかけは何でしょうか。このテーマを選んだのはなぜですか。また、なぜノンフィクションではなくフィクションで描こうとしたのですか。
クリスティン・パイパー(CP):10代の頃から小説を書きたいと思っていました。昔から読書が好きで(読む本のほとんどは小説)、学生時代は創作活動に楽しんで打ち込んでいました。ですから小説を書くのが夢でした。
雑誌の記者として10年間働いていましたが(今でもそうですが)、それが私の創作意欲を満足させるものではありませんでした。だから、無理にでも小説を書きたいと思い、クリエイティブ・アーツの博士過程で学ぶことにしました。大学という環境で得られるだろう研究の枠組みとサポートを利用して、小説を書くことを自分に強いてみたかったからです。
実際、この学位取得のために『暗闇の後で』を書きました。この小説は、私の最終論文の約70%を占めていました。あとの30%は理論的な論文でした。この小説を書き上げた直後、35歳以下の作家に贈られるヴォーゲル文学賞を受賞し、すると小説はすぐに出版されました。
『暗闇の後で』のなかでとりあげている題材を選んだ理由についてですが、まず私の母が日本人なので、オーストラリアの日本人移民の歴史に興味を持っていました。最初は、ブルームで第二次世界大戦中に抑留された真珠貝採取のダイバーに焦点を当てたいと思っていました。大学の指導教官からは、博士号は独創的な研究でなければならないと言われました。ブルームの真珠貝採取のダイバーについての小説はすでにいくつか出版されていましたが、オーストラリアでの日本人の抑留についての小説は(当時は)誰も書いていませんでした。そこで教官から、それを取り上げたらどうかと提案されました。
——細菌兵器の開発に関わる茨木医師を主人公に据えたのはなぜですか。彼を通して訴えたかったものは何でしょうか。
CP: ほとんどの人は、私が最初から731部隊について書きたかったわけではないことを知ると驚きます。このアイデアは後から思いついたものでした。
小説家はよく、ストーリーが自分を見つけてくると言います。この点からすると茨木というキャラクターが私を見つけたのでした。何ヵ月もの間、私は小説の冒頭を書きあぐねていました。いくつかのバージョンを試してみましたがうまくいきませんでした。
でもある日、どこからともなく、私の頭の中に声が聞こえてきました。それは、自分の人生を振り返る年老いた日本人男性の声で、後悔に満ちたものでした。彼は私の頭の中にほとんど完全な形で姿を現わしました。彼がブルームの日本人病院に勤務していた日本人医師で、真珠湾攻撃後にオーストラリアの収容所に抑留されたという設定を、私はすぐに決めました。
しかし、私にとって謎のままだったのは、彼の後悔の原因でした。奥さんが亡くなったのか、あるいは子供が死んだのか。しかし、彼のトラウマはそれよりもっと大きなものだと感じました。
『暗闇の後で』の初稿を3分の2ほど書き終えた頃、戦時中の日本がおこなった人体実験について本で読んだことを思い出しました。ネットで調べて、その計画の名前を見つけました。731部隊です。最初に見つけた記事は、1989年に新宿の建設現場で掘り出された骨の隠し場所についてでした。その骨は、東京にあった秘密とされていた731部隊の研究所に関連していると考えられました。その時期は、茨木医師の人生と関係があるのではないか。彼はブルームで働くためにオーストラリアへ移住する前、1930年代に東京のその研究所にいた可能性があると気づきました。
茨木医師を通して伝えたかったことに関して言えば、できるだけ多くの矛盾を体現した人物を作りたかった。つまり私心がなく、他人を助けることに献身的でありながら、その一方で、道徳的に非常に悪いことをしてしまう。茨木医師のように本来は善人であるのに、自分の良心と相反する邪悪な行為に促されてしまうことに私は惹かれました。私は、誰にでも善と悪の可能性があることを示したかった。私たちの行動を支配する善悪を隔てているのは薄い壁だということです。
初稿の段階で小説の中心テーマは何なのかを見極めるのに大半の時間を費やしましたが、すべてが沈黙を中心に回っていることに気づきました。シスター・ベルニスと茨木医師との間にある暗黙の引き合う力、そして、収容所に抑留されたミックス・レイスの人やオーストラリア系日本人たちの沈黙。結局のところ、『暗闇の後で』は、過去のトラウマと向き合い、声を上げる勇気を見つけることなのです。
続く >>
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