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自伝-渋谷松之助-

*本稿は、1986年に渋谷松之助氏によって書かれたものを書き起こしたもので、旧漢字などは常用漢字へ書き直し、読みやすいように編集してあります。

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<<略歴>>
明治39年(1906年)3月15日生
原籍 神奈川県足柄上郡松田町惣領庶子一番地

父 渋谷 才次郎
母      リュウ 
姉     エイ子 
兄     久松 (82才現存)

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父は、母と相談のみにて、親兄弟・親族に無相談にて、私が生まれて間のなく、及川甚三郎氏の密航船水安丸にて苦難を乗り越えて渡加。この時から私は、カナダに間接的に関係を持つことになりました。母は小さい三児をかかえて、親兄弟に白眼視されて、想像に余る苦難の道を辿られた。

シキナー川支流ベルモー川上流の一哩(マイル)川上のブラウンソーミルにて働くこと約6年。父は、明治45年(7月30日より大正となる)一時帰国。帰加後はポートエシングトンにて漁業。

大正12年(1923年)9月1日の大震災の為、10月に帰国。同時に母と私のカナダ入国許可を持参。しかして母は、種々の事情のため断念。(姉はすでに結婚。兄一人残すにしのびず。)

私は、1924年4月24日、エンプレス・オブ・オーストラリア号にて渡加。5月7日、晩市(バンクーバー市)に上陸。カナダの土地を踏む。

私は、現在までを三期に分けると、第一期は生まれてから渡加の日18才まで。第二期はカナダに来た日から不安定な時代40才まで。第三期は41才から現在までの安定期。

第一期、尋常高等卒業。自習学校2ヵ年卒業後、2ヵ年国鉄に就働。

第二期、ただちにシキナー河上流ポートエシングトンにおもむき、6月より父と共に魚者として働く。しかし私は海上生活を好まず、父に願って次の年(1925年1月中旬)フリンスルパートの近くのソーミル(製材工場)に父と働く。10ヵ月後、このソーミルは2回にわたる火災にて再開不能となる。

1926年1月中旬、父と別れる。父は再び漁業に、私は知人を頼ってオーシャンフォールスに渡り、初めてカナダにおいて一人歩きとなる。ここは私の人生に大きな転換を与えた場所となる。

就働のかたわら、教会夜学校に行き、同郷の方(クリスチャンにあられることを後で知る)に誘われて教会に行き、キリスト教という宗教のあることを知った。二回、三回といくうちに、宗教の必要が理解でき、時間の許す限り日曜礼拝、及び祈祷会に出席し、聖書を読む。当時、清水先生が学生伝道師であられ、本当に良い教えを受けた。しかし同年8月上旬、牧師となられる為に出晩され、一寸落胆。

9月、日本より高北義雄先生学生伝道師として来られた。この先生によって一層信仰を加えられた。

ここで特筆すべきことは先生を中心に独身者(先生を加えて8人)にて破竹会(ハチク)という会を作った。皆の時間の都合の良い時に集まって、自分達一同で教会で食事を作って食べ、信仰について大いに励ましあい、教会活動の中心になって共に働こうという趣意であった。当時は本当に信仰に必要な糧を与えられた。

1928年2月下旬、訪日を思い立ち出晩。ただちに、最初信仰に導いてくださった清水先生にお逢いして、信仰を告白、受洗をお願いし、3月第一日曜のフェアビュー教会朝礼にて受洗す。

3月10日、ビクトリアより米船にて帰国。町役場にて帰国登録。4月上旬、徴兵検査に行き、22才、甲種合格。同年12月1日より29年1月31日まで兵務に服す。これは私の人生にとって貴重な体験となる。

29年3月中旬、帰加晩市方面で自分の人生を決めたいと考えた。しかし、差当たって食を得ることが先決と思い、ウエストミンスターの製材所に職を得、ここにはからずも信仰部会の郷満君、同郷の瀬戸満三君を知り、ウエストミンスターの日曜礼拝に出席、初めて赤川牧師御夫妻に面接す。日曜礼拝は何時も出席。

かねて同郷の先輩M氏(町田氏)から懇請され、ある使命を受けて8月中旬ラングレー・プレーリのタイミールに行く。はや手の施すすべもなく閉鎖。出晩。先輩町田氏のところにて働く。日曜日礼拝に出席する機会も多くなり、当時キリスト青年会にも加入した。

1936年3月上旬 ふただび日本訪問。不思議な縁によって山口千秋氏の長女千重と4月15日結婚。同伴出来ない為、単身9月下旬に帰加。37年5月に妻を迎える。

かねて先輩町田氏の依頼により、イチゴ、トマトのバスケットタルトを作る小規模の工場を殆ど単独にて建設。運営約2年後、意見の相違の故、この仕事から退く。再び妻子を引連れ、オーシャンフォールスに就働。大戦勃発まで約2年間。

1942年1月中旬出晩。妻子を残し、プリンストンロードキャンプ(収容所)に2月上旬、他の人達と送られる。5月上旬、14マイル・ランチ(及びタシミ)に家族収容所を作る為に移動。8月上旬、多くの家族と共に妻子を向かえ再開を喜び合う。

終戦1年後の46年8月閉鎖されることになり、マニトバ州のトランスコーナのホステルに送られる。ここではからずも赤川先生、引田兄の訪問を受け、私達の小さなルームに角増・浜出両夫妻と共にしばらく雑談。それぞれ思い出を語り合い先生の励ましの祈祷を得たことは喜ばしい事であった。

ここも同年9月一杯にて閉鎖されることになり、B.C.州(ブリティッシュ・コロンビア州)以外のいかなる場所にでも自由に出られることになった。住居が得られない家族は、さらにオンタリオ州のアンゴラ収容所に移ることになり、他の家族と共に、貨車に荷物を積み込む。その後、引田兄が見えられ、家があるとの親切なお言葉に、早速主任に申して許可を得、荷を取り出した。

1946年10月1日W市(ウィニペッグ市)アレキサンダー街に住居を定めこれより第三期を向かえ、現在まで40年間経過す。

ここで再び、赤川先生の托されるW市の教会につながり神様の恩寵に浴することが出来、この上もなき感謝であった。

47年の教会総会に出席。赤川先生より役員に推薦されお言葉に従い、その末席につながり、神様の御用の為に働く喜びに満たされた。

当時はノックス教会にては朝の朝礼のみ、他の集会はロバートソンハウスグレース教会(エリス・ノーテルデム三角形の所、現在パーキングロット)牧師館等で行われた。

赤川先生の隠退に続いて、小倉先生。退職後、後任の牧師が得られない為、日本語のお出来になるミス・ベーツ先生を迎え、日曜礼拝を守ることになる。先生は日本語をお書きにならず、週報・月報を如何にすべきか、役員会の問題になり、色々と協議。結局、私たちが出来ないかも知れないが、とにかくお引き受けすることになる。

先生のローマ字の原稿を日本語に書き換え、原紙に書いて印刷する。後任牧師の古屋先生は、7月下旬着任され、全部の責任を解除していただこうと思ったが、ぜひ継続をと懇請され、先生の退任まで続けた。

則末・正木両先生はご自身お書きになりましたため、印刷のみお手伝いをす。なほ、年度報告は毎年作成す。

今は役員の末席につながり出来るお手伝いをしたいと念している。

84年7月1日より現在の場所に移転。2ヵ年になろうとしてはばかる。今年80才を迎え、妻70才。共に健康に恵まれ結婚50年、クリスチャン生活58年。神様の限りなき御恩寵の内に過ごすことの出来ることを感謝しつつ、女5人男二、結婚4人孫8人、残る人生神の御手にある。

1986年4月吉日

>> 渋谷氏の孫ナタリー・マリコ・シェルドレイクさんがこの自伝を読んで書いたエッセイもご覧ください。(英語のみ)

*日本語版の掲載:2010年3月3日

© 1984 Matsunosuke Shibuya

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