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山野愛子さんの家でお見合いをした雅子さんと、加藤光男さんは、その1週間後には式を挙げていた。結婚式のアルバムからは、当時にすれば桁外れに豪華だったに違いない様子が伺える。
雅子さんの打ち掛けは斬新なレース製、かつらは従来の重いものとは違い網でできた新作だった。すべて山野愛子さんの作品である。さらに、花嫁のお化粧も、美容業界の大御所だった愛子さん自らが施したそうだ。
「日本にはまだモノクロの写真しかなかったのですが、光男がカラー写真のフィルムを入手してきて、屋外だったらカラーでも大丈夫だと皆で式場の屋上 に上がって撮影しました。それから1956年当時、日本の結婚式にはウェディングケーキなんてなかったのですが、これも愛子さんのアイデアで豪華なケーキ が登場しました」
花嫁の口にケーキを運ぶ花婿の写真からは、とても1週間前に初めて相手に会ったとは思えないほどの幸福感が伝わってくる。
挙式後は箱根と関西に新婚旅行に出かけた。そして、雅子さんの準備が整うとすぐに、アメリカに向けてパンアメリカン機で旅立った。1956年と言えば、まだ船による渡米が一般的だった頃である。
「空港は羽田でしたね。日本の家族が送迎台から私たちを見送ってくれました」
少女の頃から夢に見ていたアメリカでの生活を、24歳の時に雅子さんは手にしたのだ。
ロサンゼルスでは、ダルマ・カフェを経営する義母のハナさんが店に近いホテルの部屋を新婚夫婦のために借りてくれた。
「メトロポールホテルと言って,ダルマからすぐの場所でした。入ったら二つも部屋があって、お風呂も付いていました。いい部屋を借りてくれたんですね。光男は店をヘルプしていましたが、私はすぐに妊娠してしまったので、店には出ませんでした」
やがて、夫婦はリトルトーキョーから離れたモンテベロに一軒家を購入した。イチジクの畑だった場所に建ち並ぶ新築の家の一つだった。
しかし、今も暮らす、その家を購入した少し後に、雅子さんが夢見ていたアメリカ生活は終止符を打った。
「ここに越してきたのは1960年です。既に長女と長男も生まれていました。その直後に、何と義母から光男が経営を引き継いでいたダルマの建物の取 り壊しが決まったのです。私たちはリトルトーキョー地区の再開発については何も聞かされていませんでした。そこで当時のお金で6万ドルかけてリモデルをし ました。この家が約3万ドルだった頃の6万ドルです。リモデルした後にリースの更新に行ったら,受け付けてくれませんでした。建物を取り壊すからというの がその理由でした。建物のオーナーは日本人ではなくてジューイッシュだったと思います」
大金をかけて改修工事をして、さてこれからと言う時に、店を失うことになってしまった加藤夫婦。残されたのは莫大な借金だった。
しかし、生きていくために立ち止まって落胆してばかりはいられない。夫婦は自宅近くのウィルコックス通りに日本食レストランを開店した。
「日本食レストランですけど、周囲にあまり日本人がいなかったので、ランチにはハンバーガーを作って出したりしていました。コックの学校を出ていた 光男が一生懸命料理を作って、夫婦で働きました。夜は11時まで店を開けて,その後は翌日出すキャベツを刻んで、さらにリトルトーキョーの豆腐屋さんが朝 の2時半に開くので夫と車を走らせました。子供たちの面倒も見られないので、その頃は友達の家に泊まらせて世話をお願いしていました。早朝、豆腐屋さんに 車を走らせながら、光男と『このまま、向こう側まで行けたら(死ねたら)どんなに楽か』と話したこともあります」
そんな時、東京の雅子さんの両親が娘の生活を見るために訪米したいと連絡してきた。雅子さんは、どん底の生活状況を、日本から送り出してくれた親に見せるわけにはいかないと思った。そこで、夫婦は2年経営したレストランを手放して親を迎えた。
「その頃は小さな車に乗っていましたが,私の親をいろんな所に連れていくために、光男はステーションワゴンを買いました。そうですね、無理をしていたと思います」
雅子さんの両親は真実を何も知ることなく、満足して日本へ帰って行った。
© 2009 Keiko Fukuda