一口に「日系アメリカ人」と言っても、さまざまな形がある。ずっとアメリカで生まれ育った日系人もいれば、アメリカ生まれながら日本で教育を受ける ために親と離れて日本で育った帰米の日系人もいる。日本生まれだが、アメリカで市民権を取得した1世としての日系アメリカ人もいれば、日系アメリカ人との 結婚で日系人社会の仲間入りをした日本人もいる。
今回、私が出会ったカリフォルニア州モンテベロ在住の加藤雅子さんは、日系1世の両親の間に生まれ、東京で育った女性である。彼女の父親が戦前に渡 米し、シアトルで過ごした後、日本から女性を呼んで結婚した。その後ニューヨークで長姉が生まれ、母親のお腹に次の姉がいる時に、母は病気の祖母の面倒を みるために、夫をアメリカに残して日本へ戻った。その後、父も帰国し、今の東京都新宿区に一家で暮らした。
「戦争時代、空襲警報が鳴る時に、私たちはこたつの中に潜り込んで空襲が終わるのをずっと待っていたんです。そんな時、父が,私がまだ行ったことの ないアメリカについて、いろんな話をしてくれました。話を聞けば聞くほど、アメリカという国に対する憧れが膨らんできましたね。そうして、大きくなったら 自分は(アメリカ)大陸にお嫁に行くんだと決めていたんです」
少女の夢が現実になる時が来た。戦後、アメリカから病気のために引き揚げてきた父親の友人が、聖路加病院で亡くなった後、未亡人となった夫人がソーシャルセキュリティーをもらえる年齢までは再びアメリカで生活することに決め、雅子さんの写真を持って渡米したのだ。
その写真は、ロサンゼルスのリトルトーキョーで繁盛していたダルマ・カフェのオーナーである加藤ハナさんに渡った。
ハナさんの夫は、戦前にはサンペドロ・ストリートで5階建てのレストラン、川福を経営していた太吉さん。ロサンゼルス日系社会における名士だった。
太吉さんは日本の宮城(皇居)で料理人を務めていた。アメリカで行われた博覧会に華族の料理番として同行した際、松方公爵が「アメリカには日本食が ない」とコメントしたのを聞き、「私がここに残って日本食を広めます」と宣言、本当にそのまま帰国せずにアメリカに留まった。ロサンゼルスで随一の有名レ ストラン、川福を育て上げた後、戦後に日本に戻ろうとしたが、何年も不法滞在を続けていたためアメリカを出国することさえできなかったそうだ。
太吉さんの妻、ハナさんは、自分たちの末っ子である光男の嫁には、日本で生まれ育った日本人がいいと、かねてから思っていた。光男さん自身、日本で教育を受けた帰米二世だったからだ。
「光男が戦後アメリカに戻って来ることができたのには、あるエピソードがあります。彼は二重国籍だったと思うのですが、そのせいで日本軍に従軍して いました。日本軍に従軍していたとなると、アメリカのパスポートを取得するのは難しくなります。そこで、戦後、日本に仕事で行っていた長姉の夫と一緒に市 役所に出向き、自分の戸籍謄本のページをその義理の兄が破ってしまったそうなんです。今となっては時効かもしれませんが、そうやってアメリカに戻ってくる ことができたと話していました」と、雅子さんは夫の若い頃の秘密を打ち明けてくれた。
そして、二人が東京で見合いをしたのは、1956年の7月のことだった。仲人は美容研究家として既に著名だった山野愛子さん。
「山野愛子さんの息子さんがアメリカ留学した時に、ママ(義母のハナさんのことを雅子さんはママと呼ぶ)がスポンサーしたご縁で、家族ぐるみのおつ き合いでした。愛子さんのお宅で、光男と会い、その日に愛子さんのショーファー付きのキャデラックで東京観光をしました。私は新宿育ちですが、その年 (24歳)まで、浅草に行ったことがなかったんです(笑)。光男は7歳上だったので当時31歳でしたね」
ご主人の第一印象を聞くと「そうですね、愛子さんのお宅にすごいご馳走が並んでましたね。それでお食事をしてから、二人で二階に行くように言われて ちょこちょこっとお話しました」と、ご主人の具体的な印象については答えてもらえなかった。一方の光男さんは雅子さんの第一印象を「笑うと歯が全部見え る」と話していたそうだ。
しかし、山野愛子さんのお宅でお見合いした7日後に挙式したという事実が、二人が初日に好印象を持ったことを証明している。
© 2008 Keiko Fukuda