ディスカバー・ニッケイ

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ワシントン政界の説得 (英語)

(英語)私たちは政府への草の根ロビー活動として、ワシントンDCまで出向きましたが、それは批判の対象となりました。「ワシントン政界」と呼ばれるポジションに居る人々から、「カリフォルニアの有権者が、アイオワやモンタナや南部の政治家に働きかけをするなんておかしいだろう。ワシントンに行きたければ、選挙区住民を送りなさい。誰か条件に合う人がいるはずだ。」と言われましたが、私は、「我々はそうは思わない。」と答えました。ワシントンに出向き、自分たちの経験を議員に話そうという二世の気合を感じていたのです。そしてその議員が誰であろうと、同じ人間なのだから、人間の苦しみを理解し、応えてくれるだろうと思っていました。そして二世の人々がワシントンへ行き、自らの体験を話すと、議員の中には涙を流す者もいたのです。


リドレス運動

日付: 1997年9月13日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ラリー・ハシマ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

バート・ナカノ氏は、1928年、ハワイ州ホノルルに生まれました。戦時中に強制収容されたハワイ在住の日系人はごくわずかでしたが、ナカノ氏一家は、ハワイで身柄を拘束され、合衆国本土の強制収容所に送られました。当時14歳だったナカノ氏は、アーカンソー州のジェロームに拘留され、その後カリフォルニア州のツールレイク収容所に移送されました。

結婚し、シカゴと日本で働いた後、ナカノ氏は南カリフォルニアに移り住みました。ナカノ氏は強制収容の事実に長い間憤りを感じ、また戦後多くの日系人が日系のルーツを恥じる風潮にも反発を感じていました。

1976年、ナカノ氏は、大学生だった息子の後押しで、彼自身も強い問題意識を感じていた問題に取り組むため、草の根活動団体、「Little Tokyo People’s Rights Organization(リトル・トーキョー人権協会)」に加わります。この団体は、ロサンゼルスの再開発事業計画に反対の立場を取っていました。なぜならその開発計画は、低所得者や中所得者層の日系人、そして家族経営の小企業の存在を脅かすものだったからです。

1978年、ナカノ氏は、第二次大戦中強制収容されていた日系人への賠償を求めるため、「補償を求めるロサンゼルス市民連合」の立ち上げに協力しました。そして1980年、ロサンゼルスの連合は、全米の各地域に根ざした団体と共に、「NCRR(補償を求める全国連合)」を組織しました。ナカノ氏は、9年間にわたってNCRRのスポークスマンを務め、その間NCRRは、日系議員や退役軍人、日系アメリカ人市民同盟などの団体や個人と協力し、正義を求めて共に活動しました。バート・ナカノ氏は、2003年に亡くなりました。(2008年4月15日)

ヘンリー・ミヤタケ

歴史は変化し続ける(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チエ・トミヒロ

聴聞会の証人委員としての役割 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

今後すべきこと (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)

ウィリアム・マルタニ

補償金額の算出(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

CWRIC委員就任の決断(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

イノウエ上院議員による CWRIC委員の選考について(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

日系委員としての個人的感情(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

不当な出来事に関する忘れられない証言(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

証言者の背景にある怒りを理解すること(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事