ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/939/

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

(日本語)「あなたの過去について、私たちは何も知らなかったんだね」と、たくさんの方たちに、言われました。まさに、そこなんです。私達がシカゴに引っ越して、その後ウィスコンシン大学に通い始めたんですが、その頃、「貴方の出身地は?」と聞かれても、自分が強制収容所に居たなんてことは、絶対に言えませんでした。恥かしくて、どうしても言えなかったのです。でも聴聞会が開かれた後は、全てが周知のこととなり、その頃から私は周囲の人たちにも当時の状況や、強制収容所での生活環境、そのほか様々なことについて説明できるようになりました。ですから、聴聞会によって、私の心はずいぶん開かれたんですね。

I*: 一連の活動を経て、あなた自身にも少なからず変化があったのですね。

ええ、全く仰る通りです。吹っ切れたんですね。

* ”I” はインタビュワー(ベッキー・フクダ)


投獄 監禁 リドレス運動 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1997年9月11日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ベッキー・フクダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

チエ・トミヒロ氏は、オレゴン州ポートランド出身です。第二次世界大戦が勃発したのは、彼女が16歳の時でした。トミヒロ氏の父は日系アメリカ人商工会議所の元会長だったため、彼はすぐにFBIに拘束されました。トミヒロ氏は、ポートランド集合センターに収容された後、アイダホ州ミニドカ収容所に送られました。その後、ニューメキシコ州の刑務所(司法省管轄の収容所)に3年間収監されていました。

戦後、再会を果たしたトミヒロ氏一家は、コロラド州デンバーに移り住み、その後イリノイ州シカゴに住居を構えました。彼女は、米国日系人市民協会(JACL)シカゴ支部のメンバーとして活躍しました。1981年、シカゴは、連邦政府のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)が行った、公開聴聞会の開催地の1つとなりました。シカゴ支部における補償委員会の委員長を務めたトミヒロ氏は、公聴会で戦時中の体験を語ってもらうべく地域の日系有志を集めました。1983年、CWRICは日系人の強制収容は軍事的必要性によって正当化できるものではなく、強制収容を引き起こしたのは、「人種的偏見、戦時ヒステリー、政治的指導者の失政」であった、と結論付けました。 (2008年4月15日)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

家族のアマチでの強制収容について会話が不十分だった(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

タカヨ・フィッシャー

収容所ではバトントワリングをして時を過ごしていた(英語)

日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

カズム・ナガヌマ

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家