ディスカバー・ニッケイ

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苦学生としてのサンパウロでの生活

サンパウロに出ましたのは1922年の9月6日の晩でした。で、サンパウロに来るのは勉強のためでありまして、私勉強したくて仕方ないんで、おじのところを2回も夜逃げしたんですけども、捕まってしまいまして、目的を達しえず、二十歳になるまで我慢をしておりました。そして20・・・1922年サンパウロに着きました。

ずっと聖州義塾(サンパウロ大学)におりまして、夜学を教えながら、学校にマッケンジーの準備科に通ったんですけども、後から教育普及会、後になって、教育普及会の前進である父兄会と言っておりましたけど、そこに私は呼ばれまして、そこでポルトゲースを教えたり、中学校の入学試験の準備をしたり、そういうまぁ教師の職につきまして、働いておりましたが、どうせサンパウロにおるならば、もうとにかく勉強しなくっちゃいかんし、するからというので、大学に入る勉強をしましたですよ。でもマッケンジーをずっとやりましてね、工科に工科をやりたかったんです。けれどもマッケンジーに入学しましたけれども、1日中ほとんど学校におりまして、私は生活しなくては苦学生ですから、自分で生活があります、ですからね。それで、マッケンジーを続けることができないで、ついに入学してすぐにまた退学いたしまして、そして法科に入りました。法科ならば時間がありますし、働きながらできるのでそういう風にいたしました。


ブラジル 教育 ポルトガル語 サンパウロ 大学

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

マサオ・キノシタ氏は、第1次大戦中、サントス港から耕地に入殖しました。他の日本人移民と共にサンパウロのコーヒー農園で働き、さらには殖民地開拓のいったんも担いました。慣れない土地で苦しい現実にさらされ、また学業に専念したい一心で、2回ほど植民地から逃げ出しますが、失敗。耕地へ戻されました。数年後、サンパウロ市で学校に通う機会にめぐまれ上京。仕事をしながら、学校にて法学を学びました。第2次大戦後は、負け組みの中心人物として、日本の敗戦をブラジルの日本人コミュニティに認識させようと運動を展開し、臣道連盟と対立しました。(2007年6月22日)

サム・ナイトウ

ポートランドの日系コミュニティの外で育った経験(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

田中誠一

日本の音楽教育(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

アリス・スミダ

仏教寺院と地方の学校で受けた教育(英語)

アメリカ最大のグラジオラス球根農園の設立者 (1914-2018)

アルフレド・カトウ

戦後リマでの体験談(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

ビル・ハシズメ

日本の教育を受けさせるようにという父の遺言(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

バイロン・グレイサー

アートをサポートすることの重要性(英語)

イラストレーター、デザイナー

ロイ・ヒラバヤシ

学校と家で学んだ日本語(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ロレイン・バンナイ

大学で初めて知った強制収容の事実 (英語)

弁護士(1955年生)

デール・ミナミ

カリフォルニア州ガーデナで育まれた順応性と競争心 (英語)

弁護士 (1946年生)

デール・ミナミ

コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)

弁護士 (1946年生)

ロベルト・ヒロセ

日本の習慣(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

赤間みちへ

ブラジルに日本様式の女学校を開校

一世。ブラジル女性教育の先駆者

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父を理解するために日本語を勉強 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世