ディスカバー・ニッケイ

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ブラジル奥地の殖民地での体験

私がね、田舎におります時のことなんぞ話すと、人は嘘だと言うかもしれませんけどもね。グァタパラを出ましてから、耕地を転々といたしまして、そうしておるうちにあの当時は戦争になりましたが。私、ブラジルに来た年に戦争に、世界戦争、第1次世界戦争が始まったんですね。そして5年続きまして、それで戦争が終わった年にコーヒー園が全部霜で焼けましたですね。

そのことで耕地に仕事が無くなりまして、あの殖民地に入りました。リオ・プレットの近くにある、これは英国人の牧場作りですが、そこに入りました。24キロ駅から入ったところですが、そこまで着くのにですね、二日がかりですよ(笑)。牛車に乗りましてね、そして入っていくの。道のないところをね、入っていくんですね。牛の足に任して入っていくんですが、まぁ、川があります途中で。その川にも橋がないんです。だからもう川の上流のほうへ渡るところまでこう行ってですね、渡るところに行って、こう向こうに。そして、それからまたこう入る。とにかくね、二日がかりで24キロのところを入ったくらいですね(笑)。だけど、そこはね晩にはオンサ(山猫)がないて通るような、殖民地。それから朝夕はもう立派なあのアララ(インコ)ですね、あの群れがね、上をね、ガァガァガァって言ってね飛んでく(笑)。あの時はね、夜になるともうあの、猿がね50頭くらい、家の近くに来てね、ガァガガァって叫んで。そういうところに入りましたですがね(笑)。

そういう話をしても、それは本当と思えませんですね。今はもう昔の話になりましたけどもね。しかし、大変にいい、ブラジルでいい経験をいたしましたし、ブラジルに来たことを感謝しております。


日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

マサオ・キノシタ氏は、第1次大戦中、サントス港から耕地に入殖しました。他の日本人移民と共にサンパウロのコーヒー農園で働き、さらには殖民地開拓のいったんも担いました。慣れない土地で苦しい現実にさらされ、また学業に専念したい一心で、2回ほど植民地から逃げ出しますが、失敗。耕地へ戻されました。数年後、サンパウロ市で学校に通う機会にめぐまれ上京。仕事をしながら、学校にて法学を学びました。第2次大戦後は、負け組みの中心人物として、日本の敗戦をブラジルの日本人コミュニティに認識させようと運動を展開し、臣道連盟と対立しました。(2007年6月22日)

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