ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/642/

日本国の再建(英語)

(英語)日本の人たちは、米軍による占領や国土の荒廃、日本人を苦しめた喪失について、アメリカ人を責めてはいなかったようです。彼らは、旧日本軍ひいては当時の政府に、非難の矛先を向けていたと思います。軍は解散していたので、非難し易かったのでしょう。日本人が唯一、我々日系人を含むアメリカ人を非難したのは、広島と長崎への原爆投下でした。 当時の日本人は、それ以外のことは追求しなかったと思いますが、彼らは完全に打ちのめされた状態にあり、他のことを考える余裕がなかったのだと思います。しかしながら、日本人は過去をただ嘆いていた訳ではありません。彼らは、今後いかに再建し復興していくか、考えていました。たくさんの人々が再建に当たる様子は感動的でした。 材木や建築資材など、当時の極端な物資不足は言うまでもありませんが、人々は、かき集めてきた資材を繋ぎ合わせ、自分たちの暮らしに必要な物を再び作り上げていきました。食べ物については、野菜を育て、なんとか工面していました。軍人の多くは、特に日系人は、我々に支給される食料を日本人に分けていました。私たちは、Kレーション(アメリカ軍が第二次大戦中に製造、配給した戦闘糧食)の支給を受けていましたが、食べられなかったので日本人にあげていました。たばこも、もちろん日本の喫煙者にあげました。


連合国軍の日本占領(1945-1952) 日本

日付: 2006年5月29日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フランシス・Y・ソギ氏はハワイ島(ビッグアイランド)のコナ、ラニハウに、5人兄弟の末っ子として生まれました。一世の両親は、野菜やバナナ、コーヒー栽培に携わっていました。

1941年18歳でハワイ大学へ進学。大学の必修科目として予備役将校養成課程(Reserve Officer Training Corps。以後R.O.T.C.)の軍事訓練を受けていましたが、真珠湾攻撃後、他の学生と共に一時ハワイ準州守備隊(Hawai‘i Territorial Guard)へ編成されました。しかし、その後すぐ「敵性外国人」とみなされ除隊し、再びハワイ大学へ戻り勉学に励みました。在学中、米国陸軍情報部がハワイ大学の日本語の分かる学生を勧誘しているのを機に、1944年に陸軍入りを志願し、ミネソタ州のキャンプ・サベージとフォート・スネリングの情報学校で訓練を受けました。戦後、アメリカ占領下の日本へ従軍し、米国対敵諜報活動部の書類翻訳などに携わりました。

1947年再びハワイへ戻り、1949年ハワイ大学を卒業しました。その後、ニューヨーク市のフォードハム法科大学へ進み、妻のサラはコロンビア大学へ通いました。ソギ氏は、1952年12月に弁護士試験に合格し、ニューヨーク州法曹界入りを果たしました。1953年ソギ氏は東京にある事務所を持つHunt, Hill & Betts法律事務所に引き抜かれ、ビジネス誌「フォーチュン」でトップ500に入る会社のライセンス契約、ジョイントベンチャー、投資などさまざまな業務を取り扱いました。1967年から1984年にかけて、ソギ氏はMiller Montgomery Spalding & Sogiにも関わり、1984年から定年する1993年までKelley Drye & Warrenにて活躍しました。

慈善事業団体Francis and Sarah Sogi Foundationを妻のサラと共に設立し、現在でも数々の非営利団体の活動をサポートしています。

2011年11月3日に亡くなりました。(2011年11月)

 

二宮 正人

初期の日本人移民の職業

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)