ディスカバー・ニッケイ

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在日アメリカ人の弁護士として従事(英語)

(英語)当時、大勢のアメリカ人が日本で働いていました。我々は、日本での彼らの個人的用務など、何でも引き受けていましたが、基本的にはライセンス契約業務の受注、例えばロッキード社などの代理人を務めていました。ロッキード社は日本に航空機を売っていたので、その際の契約業務が仕事でした。我々は、フォード•モーターの代理人も務めていたのですが、フォードは戦前から横浜に工場を持っており、戦後工場を再開し、日本国内で部品の調達など、様々な契約が取り交わされていました。アメリカン•サイアナミド社が工場を建設した時のサポートも行いました。我々の事務所はとても有名で、ビジネス誌「フォーチュン」のトップ500に入る多くの企業から依頼を受けていましたし、日本国内では最大手の外国弁護士事務所でした。ニューヨーク事務所のお陰で、日本に進出した大企業と強固な繋がりがありました。米国企業は、日本国内で製品を販売するだけでなく、製造も行っていました。


弁護士 (lawyers)

日付: 2006年5月29日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フランシス・Y・ソギ氏はハワイ島(ビッグアイランド)のコナ、ラニハウに、5人兄弟の末っ子として生まれました。一世の両親は、野菜やバナナ、コーヒー栽培に携わっていました。

1941年18歳でハワイ大学へ進学。大学の必修科目として予備役将校養成課程(Reserve Officer Training Corps。以後R.O.T.C.)の軍事訓練を受けていましたが、真珠湾攻撃後、他の学生と共に一時ハワイ準州守備隊(Hawai‘i Territorial Guard)へ編成されました。しかし、その後すぐ「敵性外国人」とみなされ除隊し、再びハワイ大学へ戻り勉学に励みました。在学中、米国陸軍情報部がハワイ大学の日本語の分かる学生を勧誘しているのを機に、1944年に陸軍入りを志願し、ミネソタ州のキャンプ・サベージとフォート・スネリングの情報学校で訓練を受けました。戦後、アメリカ占領下の日本へ従軍し、米国対敵諜報活動部の書類翻訳などに携わりました。

1947年再びハワイへ戻り、1949年ハワイ大学を卒業しました。その後、ニューヨーク市のフォードハム法科大学へ進み、妻のサラはコロンビア大学へ通いました。ソギ氏は、1952年12月に弁護士試験に合格し、ニューヨーク州法曹界入りを果たしました。1953年ソギ氏は東京にある事務所を持つHunt, Hill & Betts法律事務所に引き抜かれ、ビジネス誌「フォーチュン」でトップ500に入る会社のライセンス契約、ジョイントベンチャー、投資などさまざまな業務を取り扱いました。1967年から1984年にかけて、ソギ氏はMiller Montgomery Spalding & Sogiにも関わり、1984年から定年する1993年までKelley Drye & Warrenにて活躍しました。

慈善事業団体Francis and Sarah Sogi Foundationを妻のサラと共に設立し、現在でも数々の非営利団体の活動をサポートしています。

2011年11月3日に亡くなりました。(2011年11月)

 

ジョージ・アリヨシ

知事選出馬を決意 (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

ロレイン・バンナイ

「生涯をかける訴訟」に携わったこと (英語)

弁護士(1955年生)

デール・ミナミ

フレッド・コレマツの再審評決が言い渡された時のこと (英語)

弁護士 (1946年生)

デール・ミナミ

コレマツの再審裁判がもたらした歴史的影響と私が感じたこと (英語)

弁護士 (1946年生)

A. ウォーレス・タシマ

人種差別に遭うアジア系アメリカ人弁護士(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)