ディスカバー・ニッケイ

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アメリカ占領下の日本(英語)

(英語)日本人は、私たち日系人に敬意を払ってくれていました。私たちは、日本語を話し、コミュニケーションが可能だったので、日本人にとっても私たちとのコミュニケーションは楽だったのです。実際日本人は、他のアメリカ人より日系人と付き合うことを好みました。アメリカ人は非人間的で冷淡でしたが、日系人はずっと同情的でした。 当時は、食べ物をはじめ、たばこや全ての物資が不足していました。その頃の日本人は、かなりの量のたばこを吸っていました。私たちは、彼らによくたばこをあげていました。我々は、毎週たばこ1カートンとベーブ・ルース・キャンディー6つの支給を受けていました。タバコは、友人たちへプレゼントしたり、情報を得るために仕事関係者にあげたりしていました。キャンディーは、教会やいろいろな所で子供たちにあげました。当時の日本には本当に物が無く、特に砂糖は不足していたので、キャンディーはすごく喜ばれました。砂糖は高価な上、希少でした。


日本 アメリカ陸軍

日付: 2006年5月29日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フランシス・Y・ソギ氏はハワイ島(ビッグアイランド)のコナ、ラニハウに、5人兄弟の末っ子として生まれました。一世の両親は、野菜やバナナ、コーヒー栽培に携わっていました。

1941年18歳でハワイ大学へ進学。大学の必修科目として予備役将校養成課程(Reserve Officer Training Corps。以後R.O.T.C.)の軍事訓練を受けていましたが、真珠湾攻撃後、他の学生と共に一時ハワイ準州守備隊(Hawai‘i Territorial Guard)へ編成されました。しかし、その後すぐ「敵性外国人」とみなされ除隊し、再びハワイ大学へ戻り勉学に励みました。在学中、米国陸軍情報部がハワイ大学の日本語の分かる学生を勧誘しているのを機に、1944年に陸軍入りを志願し、ミネソタ州のキャンプ・サベージとフォート・スネリングの情報学校で訓練を受けました。戦後、アメリカ占領下の日本へ従軍し、米国対敵諜報活動部の書類翻訳などに携わりました。

1947年再びハワイへ戻り、1949年ハワイ大学を卒業しました。その後、ニューヨーク市のフォードハム法科大学へ進み、妻のサラはコロンビア大学へ通いました。ソギ氏は、1952年12月に弁護士試験に合格し、ニューヨーク州法曹界入りを果たしました。1953年ソギ氏は東京にある事務所を持つHunt, Hill & Betts法律事務所に引き抜かれ、ビジネス誌「フォーチュン」でトップ500に入る会社のライセンス契約、ジョイントベンチャー、投資などさまざまな業務を取り扱いました。1967年から1984年にかけて、ソギ氏はMiller Montgomery Spalding & Sogiにも関わり、1984年から定年する1993年までKelley Drye & Warrenにて活躍しました。

慈善事業団体Francis and Sarah Sogi Foundationを妻のサラと共に設立し、現在でも数々の非営利団体の活動をサポートしています。

2011年11月3日に亡くなりました。(2011年11月)

 

ロバート・T・フジオカ

アメリカ軍に捕らえられた祖父(英語)

ハワイ生まれの元銀行幹部職員(1952年生)

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ハワード・カキタ

アメリカで両親と再会する(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

核兵器についての考え(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊で壁画や標識を描く

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊でタイピストとして働く

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊でバスケットボールをする

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人