ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/603/

プロの舞踊家として最善を尽くす(英語)

(英語) (舞台では)全員が最善を尽くします。太鼓を叩く男性も例外ではありません。「太鼓の準備ができました」(とかけ声が)すると海が見えてくるんです。ドン、ドン、ドン・・・(太鼓が響き)海を感じることができるのです。そして私は「あっ、海の中に浦島太郎がいる」と感じるのです。その男性は懸命に太鼓を叩きます。そして私が(さおを)持って(舞台に)出てくるのですが、気候がとにかく寒く、白い息が口と鼻からあがってしまい、寒すぎて息が出来ないのです。ですから私は向こう側を向いて「はーっ」と息を吐き出し、観客の方に向き直り、そこで息を止めたのです。そして息を止めながら踊らなくてはなりませんでした。そうしないと、めちゃくちゃになってしまいますから。(吐く息で)観客から私の顔が全然見えなくなってしまいますからね・・・本当に大変でした。でも私の方から観客(の顔)が見え、涙が光っているのが見えたんです。喜んで頂けたのだと思います。


芸術 ダンス 日本 歌舞伎 舞台芸術 劇場 (theater)

日付: 2004年11月30日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ナンシー・アラキ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

藤間勘須磨師匠(本名スマコ・ハマグチ)はカリフォルニア州サンフランシスコに生まれました。9歳のときロサンゼルスで歌舞伎を習い始め、その後ハワイの交換プログラムに参加しました。プログラム終了後、ロサンゼルスへは戻らず、斯界の歌舞伎役者6代目尾上菊五郎の元で学ぶために渡日。菊五郎の紹介で彼の師である藤間勘十郎のもとで藤間流を学びました。舞踊の基本だけでなく、三味線、鼓、演技、化粧なども学び、1938年藤間流の名取りを取得しました。

名取り取得後アメリカへ帰国し、父の経営するロサンゼルスのホテルでダンス教室を開きます。しかし、第2次大戦勃発ゆえに勘須磨師とその家族はアーカンソー州ローワーでの収容を余儀なくされました。少しして、政府より日本舞踊を教えることを許されたため、戦中はさまざまなキャンプで日本舞踊を教えました。戦後はロサンゼルスへ戻り、日本舞踊を教えるかたわら、自らの公演も再開しました。現在、彼女は2000人以上の弟子を持ち、その中の43人は名取りを取得しています。

1985年、日本政府より宝冠章、1987年にはNational Endowment for the Arts' National Heritage Fellows Award(米国版重要無形文化財)を受賞しています。また、2004年に全米日系人博物館よりCultural Ambassador Awardを受賞しています。

2023年2月、104歳で亡くなりました。(2023年6月)

アキラ・ワタナベ

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ジョージ・アベ

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カーデザイナー、ラリー・シノダの姉

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タカヨ・フィッシャー

収容所で日本の舞台芸術を守る (英語)

日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)

タカヨ・フィッシャー

タカヨ・フィッシャーの演技愛は芝居に始まった(英語)

日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)