ディスカバー・ニッケイ

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第2次大戦後の東京(英語)

(英語)(街は)廃墟と化していました。私達はマニラや日本でそれを目の当りにしました。特に東京、横浜、大阪の大都市は荒廃していました。破壊されたビルと瓦礫がただただ向こうまで続いていて、荒廃しているのが一目瞭然でした。本当に驚きました。もう少し(戦争によって何が起きているのか)知るべきでしたが、当時私はまだ20歳かそこらでしたから。我々(米国)ももう少し思いやりがあっても良かったのではないでしょうか。東京に着いた最初の夜のことです、飛行場に着陸した後、私は友達と街中に移動して、東京の中央にある日比谷公園の横にある、破壊されずに残った数少ないビルのひとつ「森永ビル」に行きました。(森永ビルの)外に出るとお腹が空いたので、近くにいた警察官に「すみません、この辺にレストランはありますか?」と尋ねると、その警察官は笑って「あなた方が爆弾でめちゃくちゃに破壊してしまい、食べ物なんてありませんよ。ましてや開店しているレストランなんて」と言いました。(何が起きているのか)知るべきでした。日本の人たちにとって本当に悲しい状況でした。


軍隊 (armed forces) 日本 軍隊 戦後 東京(首都) 東京都 第二次世界大戦

日付: 2004年3月18日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ミシェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

リチャード・ヒロミチ・コサキ博士(1924年9月14日に生まれ)は、ハワイ州ホノルルで育ち教育を受け、人生の大部分をハワイで過ごしています。第二次大戦中は、陸軍情報部(MIS)に所属し指導教官として務めたほか、アメリカ占領下の日本で通訳として従事しました。1948年ハワイ大学の学部課程を卒業、その後、ミネソタ大学で修士号と博士号を取得しました

博士課程終了後、ハワイ大学で教鞭をとるために再びハワイへ戻った彼は、コミュニティ大学の副学長、西オアフ単科大学学長、学術事務局の副局長、ハワイ大学マノア校学長代理、東海大学ホノルル校学長など勤めました。また、イースト・ウェストセンターの設立やハワイ大学のコミュニティ大学システムの確立にも貢献しました。彼の最も好きな教育哲学は「話してください、私は忘れてしまいます。教えてください、私は覚えます。やらせてください、私は学びます。」です。

コサキ博士はミルドレッド(旧姓:ドイ)と結婚し、1962年に一人息子ランドルを授かりました。(2004年3月19日)

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

ローズ・クツカケ

スロカン収容所後の生活(英語)

第二次大戦中にスロカンに収容。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー (1918-2004)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ミツオ・イトウ

広島で英国軍に従事(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ビンス・オオタ

決してなることができない日本人(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

フランク・ソギ

1941年12月7日の記憶(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)