ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/347/

ツールレイクからミニドカ収容所への移動(英語)

(英語)ミニドカ収容所の建物もツールレイク収容所と同じタイプのものでした。私の父と母は、パインデール集合センターで同じ部屋を共有していたウエジ家族と、ミニドカ収容所でも偶然また同じ部屋を共有することになりました。私と息子は、アーバーン(ワシントン州)に住んでいたころから知っていたご家族の娘さんとそのご主人と一緒の部屋になりました。部屋の真ん中を毛布で仕切り、あちらのご家族と私たちのセクションを分けました。その隣(の部屋)にはその娘さんのご両親が住み、反対側には私の知らない家族-その後知り合いになりましたが-が住んでいました。ミニドカ収容所も同じように、(ひとつの建物が)だいたい4つか5つに仕切られていて、だるまストーブとベッドがあるだけでした。

私は、タデさんという男の人がツールレイク収容所で余った材木を使って作ってくれたテーブルを、分解してアイダホ州(ミニドカ収容所)に持って行き、あとで組み立てるつもりで保管していたのですが、石炭ストの時、間違って机の脚を何本か燃やしてしまいました(笑)。


カリフォルニア州 強制収容所 アイダホ州 投獄 監禁 ミネドカ強制収容所 パインデール集合センター 一時拘置所 ツールレイク強制収容所 アメリカ合衆国 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2004年9月15・17日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ペギー・ニシムラ・ベインは1909年3月31日ワシントン州バションに生まれました。彼女の両親は熊本県出身です。6人兄弟の2番目として生まれた彼女は、17歳の時に最初の結婚をし、息子と娘をもうけました。

真珠湾攻撃の時は、弟の名義の3つの農場で両親の手伝いをしていました。その後、パインデール集合センターへ送られたあと、ツールレイク、ミニドカ収容所へと転送されました。ミニドカ収容所を出た後は、娘とともにシカゴへ移住しました。そこでは、収容所で身につけた写真の技術を使い、何年もの間写真スタジオにてコロリスト(写真へ色づけする人)として働いていました。最終的にはワシントン州の両親の近くへ戻り、現在もワシントン州で生活しています。(2004年9月17日)

フランク・ヤマサキ

ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

フランク・ヤマサキ

徴兵拒否の決意(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

シズコ・カドグチ

タシュメでの生活(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

ポール・テラサキ

年代による収容所に対する印象の違い(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

エリック・ナカムラ

父からではなく歴史の本を通して学んだ収容所(英語)

『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長

エリック・ナカムラ

マンザナー収容所でのスケボー体験(英語)

『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長

マイク・シノダ

日系人収容所に対する家族の見識(英語)

ミュージシャン、プロデューサー、アーティスト(1977年生)

マサオ・コダニ

強制収容所での思い出(英語)

ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

子供の視点で見る収容所の非日系人(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

恥ずかしくて話せなかった収容所の体験 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

甥との対話から生まれた小説 (英語)

作家(1934年生)