ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/271/

お手伝い (英語)

(英語) (母は)子供たち全員に仕事を割り当てました。兄や弟たちは庭の手入れをし、私は毎朝鳥に餌を上げるのが日課でした。野菜を細かく切って残り物のごはんと混ぜ、それを鳥に食べさせ、それから卵を拾うんです。時々卵を落としてしまったりすると、母にものすごく怒られ、お尻をたたかれましたよ。母は私たちに卵を食べさせてくれませんでした。卵は売り物だったので、そんな余裕はなかったんです。大変でしたよ。

その他にも私は兄弟姉妹全員のお昼を作らなくてはいけませんでした。姉が(お嫁に)行ってしまい、娘の中では私が一番上だったので、いろいろな責任ある仕事を任されるようになりました。9歳でした。母は一日中洗濯場にいたので、私が家族の食事を作りました。簡単なものですが・・・あのころはステーキもありませんでしたし、スパゲティーの作り方も知りませんでした。私がメイドとして働くまでは、スパゲティーなんて見たこともなかったですよ。だから食事は野菜料理が多く簡単なものでした。少しだけベーコンを炒めて入れたりしてね。(そんな感じで)私が料理をしていました。

朝は5人の兄弟姉妹のお昼を作りました。そして毎朝・・・チョリソ(ソーセージ)は今高いですね。食べたいけど高くて買えないわ・・・私たちが子供の頃、母がチョリソを大きな缶で買っていました。一番簡単にできる料理(はチョリソを使ったもの)でした。毎朝それを薄く切ってカリカリに炒めお弁当箱に入れるんです。長方形のアルミ製の箱を買ってね。ある日、ポルトガル人の先生のミセス・メンドンサがクラスの皆の前で私のお弁当箱を持ち上げて――確か私が小学校4年生か5年生の時だったと思います――「フサコのお弁当を見てごらんなさい。毎日チョリソを持ってきているけど、これは身体に良くないの!」と言ったのを覚えています。本当に恥ずかしかったです。


家族 食事 プランテーション

日付: 2004年2月19日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: リサ・イタガキ、クリッシー・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

バーバラ・カワカミ氏は1921年熊本県に生まれました。彼女の家は封建時代からの農家で、そこで350年余りの歴史を持つ旧家でした。ハワイのオワフ島にあるオワフ砂糖農園で育った彼女は、仕立て屋・家政婦として働いていました。しかし、50歳を過ぎた頃、高校進学を決意し、その後テキスタイル・アンド・クロージング(繊維・衣服)の理学士号(BS)とアジア学の文学修士号(MA)を取得しました。カワカミ氏は日本人移民の衣料を専門とするストーリー・テラーであり、学者でもあります。(2004年2月19日)

マーガレット・オダ

日本語と価値観をもとに育つ(英語)

(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世

ロベルト・ヒロセ

日本の習慣(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ポーラ・オヨス・ハットリ

日本文化への興味 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父との思い出 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父を理解するために日本語を勉強 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

人生でもっとも印象に残っている日

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

外間良広

奥さんとの出会い

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本では親戚も少なく(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

ベナンシオ・シンキ

家での規律と躾 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

クリスティー・ヤマグチ

祖父母の閉ざされた過去 (英語)

プロフィギュアスケート選手。オリンピック金メダリスト。(1971年生)

ジョニー・モートン

祖母との会話 (英語)

プロアメリカンフットボール選手。(1971年生)

ジョージ・ヨシダ

ジャズとの出会い (英語)

音楽家 (1922年)

ダニエル・K・イノウエ

母の生い立ち (英語)

ハワイ州上院議員 (1924-2012)

ダニエル・K・イノウエ

父について (英語)

ハワイ州上院議員 (1924-2012)

カイ・フクモト

家族の伝統としての太鼓(英語)

三世の和太鼓奏者。マウイ太鼓のリーダー(1960年生)