ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/270/

初めての学校 (英語)

(英語) 初めての学校の日、母は洗濯(の仕事)を置いて私を学校に連れて行きました。母は英語ができなかったので、私をどの教室に連れて行けばいいか分からなかったんです。先生が何か言っていても理解できず、イライラしてやっとある教室に連れて行き―あの頃は木製のベンチがあるだけでした―私を前の方に座らせました。まわりは違う人種の子供たちで、彼らも英語が話せませんでした。皆フィリピン人の子供だったんですね。彼らは両親の母国語で話していました。

私たちは目を合わせたかと思うと、お互いをじろじろと見ていました。するとそこにものすごく大きい女性が入って来たんです。まだ7歳だった私には、巨人のように見えました。白髪で針金のような(ゴワゴワした)髪をしていて、目は青く、色がすごく白くて・・・私たちは隔離されたキャンプに住んでいましたから、プランテーションで白人を見たのは彼女が初めてだったんです。彼女が私のところへ来て、名前を聞いたんだと思いますが、英語が分からなかったので、前にかがんだ時食いつかれるのかと思い「オバケー!オバケー!」と悲鳴を上げてしまいした。出せる限りの大声で叫び(教室の)前方に走って逃げ、そこにあった枕(?)にしがみつきました。彼女は後を追って走ってきて私を抱きしめようとしました。でも抱きしめようとすればするほど、私は大声で叫んだのです。これがアメリカンスクールでオリエンテーションがあった日の様子でした。


教育 プランテーション

日付: 2004年2月19日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: リサ・イタガキ、クリッシー・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

バーバラ・カワカミ氏は1921年熊本県に生まれました。彼女の家は封建時代からの農家で、そこで350年余りの歴史を持つ旧家でした。ハワイのオワフ島にあるオワフ砂糖農園で育った彼女は、仕立て屋・家政婦として働いていました。しかし、50歳を過ぎた頃、高校進学を決意し、その後テキスタイル・アンド・クロージング(繊維・衣服)の理学士号(BS)とアジア学の文学修士号(MA)を取得しました。カワカミ氏は日本人移民の衣料を専門とするストーリー・テラーであり、学者でもあります。(2004年2月19日)

ヘンリー・須藤

日本での学校生活

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

スミコ・コザワ

英語を覚える (英語)

花屋 (1916-2016年)

ヘンリー・須藤

無我夢中で頑張った戦後

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

BJ・コバヤシ

弁護士から開発業者へ(英語)

ハワイのビジネスマン、開発者

ススム・“スス” ・イトウ

仕事を探していた時に感じた差別 (英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

ススム・“スス” ・イトウ

上司の招きでハーバード大学の教員に(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミツエ・ヤマダ

「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)