ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1775/

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

キヨは、やはり率直な意見を言う人でした。政府が派遣した時、つまり補償期間中、1980年代後半、広報担当者がここのJCCNC(北カリフォルニア日本人商工会議所)のコミュニティセンターに来ました。広報担当者が話している間、私の姉がすぐに彼のところに行き、私たち全員がこれを持っている、FBIに逮捕されたと書かれた書類を見せました。驚いたことに、彼はその場で「あなたは資格があります」と言いました。私たちはちょっとショックを受けました。そこにいた他の日系ペルー人は同じ書類を持っていませんでした。

私たちは皆、どこかにそれを持っています。そうです、誰もが。家族全員ではなく、個人に1つずつ与えられます。

鍵となったのは、ロナルド・レーガンからの謝罪の手紙と、2万ドルを受け取ることだった。


日系ペルー人 リドレス運動

日付: 2019年9月20日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: トム・イケダ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

カズム・フリオ・セサール・ナガヌマ(永沼)は1942年7月28日、ペルーのリマで一世の両親のもとに生まれた。第二次世界大戦前、両親は洗濯業を営んでおり、父はコミュニティの中でもリーダー的存在であった。戦争が始まると、FBIは父親を逮捕し、家族全員がテキサス州クリスタル・シティにある司法省の収容所へ送られた。戦争が終わっても、一家はペルーに戻ることが許されなかったため、一家は収容所へしばらくとどまっていたが、ニュージャージー州のシーブロックバームのスポンサーを受け、収容所を離れ、その後、サンフランシスコの神道教会の教師の援助受け、サンフランシスコに移り住み、一家はそこで仕事と住居を見つけることができた。カズムはデザイン会社を設立し、成功を収めた。(2022年9月)

 

ヘンリー・ミヤタケ

歴史は変化し続ける(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チエ・トミヒロ

聴聞会の証人委員としての役割 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

今後すべきこと (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

バート・ナカノ

補償運動への参加者の増加 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

ワシントン政界の説得 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

大衆の力 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)

ウィリアム・マルタニ

補償金額の算出(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

CWRIC委員就任の決断(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

イノウエ上院議員による CWRIC委員の選考について(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事