ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1751/

ペルーでの子供時代の思い出(英語)

(英語)当時8歳でしたが、学校には通ってませんでした。日系ペルー人に対して暴動がおこり、反感があったので、日系人である私が学校に行くのはとても危険でした。家族経営だったので、家族は皆働いていました。毎日4〜6人でアイロンがけしていたのを覚えています。キッチンでは子守りの一人が料理をしていました。週末には、ご飯と具を混ぜた日本のばら寿司を作ってくれ、そのあと彼女は週末の間、家に帰ってました。


幼少期 日系ペルー人 ペルー

日付: 2019年9月20日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: トム・イケダ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジミー・ナガヌマは1936年にペルーのカヤオで一世の両親の間に生まれた。8歳の時、家族と共に強制連行され、第二次世界大戦中テキサス州クリスタルシティに収容された。戦後、一家は収容所を出ても行くあてがなかったが、カリフォルニア州サンフランシスコの牧師がスポンサーを申し出てくれたので、そこで仕事と住居を見つけることができた。(2020年6月)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

芸術のおかげで、学校での居心地の良さが増した

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

クリスタルシティの地図で家族のバラックを見つける

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

カズム・ナガヌマ

国外追放と闘うために受けた支援

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

カズム・ナガヌマ

シーブルック農場は日系ペルー人を安価な労働力として支援した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

カズム・ナガヌマ

日系ペルー人であることを誇りに思う

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

カズム・ナガヌマ

テキサス州ラレドの拘置所にいるヒスパニック系移民家族について

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ベナンシオ・シンキ

同胞の援助と協力 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ベナンシオ・シンキ

日本式の教育 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ベナンシオ・シンキ

日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

アルフレド・カトウ

アイデンティティ: 日本人 vs. ペルー人(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

アルフレド・カトウ

第2次大戦中、山中の小さな村へ避難(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

アルフレド・カトウ

戦後リマでの体験談(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

ベナンシオ・シンキ

戦時中身を隠していた父 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

アキラ・ワタナベ

ペルー支部祭り太鼓のはじまり (スペイン語)

ペルーの琉球祭太鼓のディレクター(1974年生)

アキラ・ワタナベ

技術的な側面を超える『気持ち』 (スペイン語)

ペルーの琉球祭太鼓のディレクター(1974年生)