ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1712/

広島からの脱出(英語)

(英語)私はいつも、自分の人生にはトラウマになる出来事が3つあったと思うと人々に話しています。もちろんこれがその1つ、最初の体験です。道路にたどり着いた時、はっきりとは分かりませんが、50人、100人もの信じられないほどの大怪我を負った大勢の人がいました。四肢が折れていたり、あまりにひどいやけどを負い、体から皮膚がただれ落ちている人々がいました。内臓がお腹から外に垂れ下がり、それを支えている人が何人か、私が見た限りでは少なくとも1人はいました。何人かはすでに地面に倒れていて、水が欲しいと懇願していました。死の直前はひどく喉が乾くと言われています。人々は、「水を飲んだら死んでしまうから水をやるな」と言っていましたが、どのみちそうした人々は亡くなりました。その頃までに、道には死体がずらりと並んでいました。

私たちは大虐殺の海をくぐり抜け、どのくらいの時間かは分かりませんが、30分かもしれないし、1時間かもしれないし、何時間もかかったかもしれませんが、炎に包まれた市からようやく抜け出し、重傷を負った大勢の人々から逃れ、まだ機能していた駅にたどり着きました。そして電車に乗って可部という地域に住む親戚の元に向かったことを覚えています。そこには遠縁の親せきがいました。私たちは戦争が終わるまでそこに身を寄せました。


原爆 被爆者 ヒバクシャ 広島市 広島県 日本 トラウマ 第二次世界大戦

日付: 2019年9月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 三木 昌子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。

第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。

ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)

ホリー・J・フジエ

日本語を教えるよう圧力を受けた祖父(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ホリー・J・フジエ

祖父がFBIに連行された後隣人の世話になった母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士