ディスカバー・ニッケイ

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仕事を探していた時に感じた差別 (英語)

(英語)1年間短大に通いましたが、本当に楽しい経験でした。その後カリフォルニア大学バークレー校に合格しましたが、両親に言われたのです。「大学に行っても未来が明るくなるわけじゃないのはわかるよな」日系人は大学を出たとしても医者か歯科医になって日系コミュニティの中で働く以外に道はありませんでした。公務員になることさえも難しかったのです。

私は車の修理がとても得意で運転も好きだったので、「自動車整備の学校に行ったらどうだ?」と言われました。それで私は整備工になるための勉強をしました。しかしこの仕事に就くにも日系への差別を感じました。日系人は労働組合に加入できなかったのです。そうなると日系人のガソリンスタンドや修理工場で働くことしかできません。結局そうしましたが、正直に言って面白い仕事ではなかったですね。いつかガソリンスタンドや修理工場か何かを経営することになっていたかもしれませんが、将来性があるようには思えませんでした。ですから1940年に徴兵された時は、「やった!」と思ったのです。(笑)


第442連隊戦闘団 軍隊 (armed forces) 自動車整備士 教育 偏見 退役軍人 (retired military personnel) アメリカ陸軍 退役軍人 第二次世界大戦

日付: 2015年1月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: リリー・アン・Y・ウェルティ・タマイ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ススム・“スス”・イトウ氏は、日本人移民のソウヘイとヒサヨ夫妻の子として1919年カリフォルニア州ストックトンで生まれました。イトウ家は、コミュニティの多くの日系アメリカ人と同様に小作農としてセロリやテンサイ、アスパラを作り生計を立てていました。スス・イトウは慎ましい暮らしの中で育ちました。

1940年、イトウ氏はアメリカが第二次世界大戦に参戦する前に21歳で徴兵されました。最初はカリフォルニア州リバーサイド近くのハーン基地で需品運搬用トラックや専用車の維持を行う多人種混合ユニットに配属されました。戦時中は人種隔離部隊である第442連隊戦闘団傘下の第552砲兵大隊に所属し、砲兵C中隊で中尉を務めました。その間家族はアーカンソー州ローワー収容所に強制収容されていました。第二次世界大戦後、イトウ氏は復員兵援護法を利用し大学で生物を学び、生物学と胎生学で博士号を取得しました。イトウ氏は自身の研究分野の先駆者となり、1960年にはハーバード大学医学部で教職に就き、1991年以来名誉教授を務めています。

イトウ氏は、2015年9月、96歳で亡くなりました。(2015年9月)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士