https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1347/
新一世実業家 (1927-2016年)
(英語)その後、54歳の時に心筋梗塞を煩い、5日間入院しました。退院後、自分では大丈夫だと思いましたが、医師から「無理は禁物ですよ。注意して過ごすように。」と言われたので、ペースを落とすことにしました。その後、既に大学を卒業していたケンが、パートで手伝いに来てくれるようになりました。ケンは他の場所でもパートで働いていましたが、しばらくして「フルタイムで園芸場の仕事を手伝う」と決断してくれました。彼がやると言ってくれて、嬉しかったですよ。
その4、5年後、僕は60歳になり、健康状態はほとんど元に戻りましたが、園芸場のビジネスは更に拡大していきました。従業員やパート職員は60-80人でしたが、今では150人を超えています。
僕の英語力では、ビジネス全体を、特に販売の方を見るには負担が大きく、販売の方はホームデポ(小売りチェーン)といった、より大きなマーケットへの進出も期待できたのですが、僕のつたない英語力では厳しく、苦労していました。そんな時ケンが、「僕がやってみるよ」と言ってくれたので、よし、任せよう、ということになりました。始まりはそのようないきさつでしたが、彼はとてもよくやってくれています。
それで僕は60歳を過ぎたら、まあ小さな会社ではありますが、株式会社でしたので、ケンに社長職を譲り、ゆっくりすることにしました。そして、随所で展開していた不動産投資の仕事に集中することにしました。
日付: 2012年2月2日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ハルノリ・オダさんは、北海道で生まれ育ちましたが、第二次世界大戦後、日本を訪れていた日系二世の女性と出会い、結婚し、米国に移り住みました。オダさんはアメリカを嫌悪していましたが、妻のミチコさんに、アメリカの方がより多くの成功の機会があると説得され、そのチャンスにかけてみることにしました。英語力には限界があったものの、オダさんは、園芸業で身を起こすことに成功しました。彼は、この仕事であれば、自分の能力で最大限の成功を手にすることができるだろうと考えたのです。最終的に、オダさんは自らの園芸場の経営を始め、事業を拡大し、その後、オレンジ郡で不動産開発業者として大成しました。オダ氏は、2016年12月14日、91歳で亡くなりました。(2016年12月)
世界を見るためにブラジルへ
笠戸丸移民
ブラジルへ来る船の中で
耕地での経験
日本人初の運転手
娘のアイデンティティ
(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。
子供たちへ継承したかったこと
日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)
渡米後の祖母の差別体験(英語)
日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)
天野芳太郎のマグロ漁船
天野博物館館長 (1929年生)
両親の背景
(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。
海外移住のきっかけ
ペルーの日本料理レストラン経営者・シェフ (1962年生)
昔と現代の海外移民の違い
東日本大震災後、仙台や福島での仕事が中止(ポルトガル語)
日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)
フィリピン・ダバオでの暮らし(英語)
フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)
移住地教育とパラグアイへの思い
パラグアイ駐日大使(1943年生)
アメリカの第一印象(英語)