ディスカバー・ニッケイ

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収容所の中での教育(英語)

(英語)収容所の学校の問題は、とにかく教育の質が最悪だったことです。少なくとも私の観点から言って、最悪、劣悪でした。学校からは何も得られないことがすぐにわかり、次第にやる気もそがれていきました。私たちは、こういう授業が必要だ、ああいう授業も必要だなどと言って、どうすればまともな授業を受けられるか考えましたが、実態はとにかくメチャクチャでした。そして、当時のしわ寄せは、大学進学後、またはその後の人生に及ぶことになりました。私の場合は、補修講義のあるシカゴ大学に進学できたのでとても運が良かったのですが、何も知らずにいれば、簡単に落とし穴に落ちてしまっていたでしょう。そういう意味で、私は本当に幸運でした。大学に補修プログラムがなかったら、最悪だったろうと思います。何しろ落差が激しかったですから。大学に行くまでそんなギャップがあろうとは思いもしませんでした。文学のことなんて何も知りませんでしたし、本もほとんど読まず、芝居も音楽も分かりませんでした。(笑)(大学に入って)自分の無知を実感しました。


大学(colleges) 教育 投獄 監禁 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1998年6月12日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・ホウリ氏は、1927年カリフォルニア州サンフランシスコに6人兄妹の末っ子として生まれました。第二次世界大戦の勃発と同時に、家族と共にカリフォルニア州のマンザナー強制収容所に収監されました。高校を卒業した1週間後、ホウリ氏は強制収容所からウィスコンシン州に移り、ウィートン大学に入学しました。1945年3月、ホウリ氏は、父親に会うため再びマンザナーを訪れましたが、許可証を持たずに来訪したとして身柄を拘束されました。さらに、彼個人に対する立ち退き命令が下され、その日の深夜までカリフォルニア州外へ強制退去させられることになりました。その時、ホウリ氏には銃口が突き付けられていました。

戦後、ホウリ氏は、日系アメリカ人市民同盟(JACL)のメンバーとなりましたが、反戦運動や公民権運動に対するJACLの無関心に失望しました。JACLが、議会の委任を受けて強制収容に関する調査活動に乗り出したことを受け、ホウリを中心とするシカゴとシアトル支部の反対者は、1979年5月、政府による個別補償を求めるため、全米日系アメリカ人市民連盟(NCJAR)を立ち上げました。当初、ホウリ氏とNCJARは、マイク・ローリー下院議員(ワシントン州選出)に個別補償の法案化を依頼しましたが、廃案となったため、ホウリ氏とNCJARは裁判で賠償請求を行うことにしました。1983年3月16日、ホウリ氏と24名の原告団は、政府を相手取り27億ドルの損害賠償を求める複雑訴訟形態の裁判を起こしました。

ホウリ氏は、2010年11月12日83歳でこの世を去りました。(2011年11月)

Grace Aiko Nakamura
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グレース・アイコ・ナカムラ

収容所でラリーが椅子をデザイン(英語)

カーデザイナー、ラリー・シノダの姉

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Peggie Nishimura Bain
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ペギー・ニシムラ・ベイン

ツールレイクからミニドカ収容所への移動(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

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Roger Shimomura
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ロジャー・シモムラ

戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

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Mónica Kogiso
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モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

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Takeo Uesugi
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上杉 武夫

国際プログラムの開発(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

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Frank Yamasaki
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フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

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Fujima Kansuma
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藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

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Takeo Uesugi
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上杉 武夫

「ニッケイ」の定義(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

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Pat Adachi
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パット・アダチ

スロカン日系カナダ人収容所での家族生活(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

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Sue Embrey
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スー・エンブリー

若かりし頃の視点 (英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Seiichi Tanaka
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田中誠一

日本の音楽教育(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

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Richard Kosaki
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リチャード・コサキ

教師としての報酬(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

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