ディスカバー・ニッケイ

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婉曲表現 (英語)

(英語)私は、婉曲表現には断固反対です。レイ・オカムラ氏は、婉曲表現を正すために立ち上がった人物ですが、私は、ある意味彼の弟子だったと言えます。婉曲表現の問題点は、それが単に文法的に間違っているからではなく、日系人の運命に甚大な影響を与えてきたからです。政府による婉曲表現の使用を容認してきたのは大きな間違いでした。政府は、「転住センター(relocation center)」や「避難(evacuation)」などと婉曲的な表現を用いて、(日系人の強制収容の違憲性から)言い逃れできたのです。現在、新聞で「避難」した人々について書いてある記事を読む度に、私は頭を横に振り、これこそが、「避難」という言葉の正しい使い方だ、と思っています。あの頃の日系人には、その言葉は当たりません。私たちは避難したのではありません。排除され、勾留されたのです。

私は、「排除」そして「勾留」という言葉の使用を主張しました。なぜなら、それらは両方とも憲法に反する行為だからです。多くの人は、そのことを認識していません。でも、転住の自由は全ての人が持つべき権利です。南アフリカの憲法には、転住の自由が明記されています。南アフリカでは、かつて移動の自由がなかったため、新しい憲法には、移動の自由について、明白な表記があります。アメリカの憲法では、明確な表記はなく、ほのめかされています。しかしながら、転住の権利の侵害は、投獄に匹敵する違法行為です。ですから、米国内に住む全ての日系アメリカ人は、賠償の対象になるのです。それで私は、法律の制定が賠償を可能にしてしかるべきだと考えましたが、日系人が立法に関わることはありませんでした。


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日付: 1998年6月12日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・ホウリ氏は、1927年カリフォルニア州サンフランシスコに6人兄妹の末っ子として生まれました。第二次世界大戦の勃発と同時に、家族と共にカリフォルニア州のマンザナー強制収容所に収監されました。高校を卒業した1週間後、ホウリ氏は強制収容所からウィスコンシン州に移り、ウィートン大学に入学しました。1945年3月、ホウリ氏は、父親に会うため再びマンザナーを訪れましたが、許可証を持たずに来訪したとして身柄を拘束されました。さらに、彼個人に対する立ち退き命令が下され、その日の深夜までカリフォルニア州外へ強制退去させられることになりました。その時、ホウリ氏には銃口が突き付けられていました。

戦後、ホウリ氏は、日系アメリカ人市民同盟(JACL)のメンバーとなりましたが、反戦運動や公民権運動に対するJACLの無関心に失望しました。JACLが、議会の委任を受けて強制収容に関する調査活動に乗り出したことを受け、ホウリを中心とするシカゴとシアトル支部の反対者は、1979年5月、政府による個別補償を求めるため、全米日系アメリカ人市民連盟(NCJAR)を立ち上げました。当初、ホウリ氏とNCJARは、マイク・ローリー下院議員(ワシントン州選出)に個別補償の法案化を依頼しましたが、廃案となったため、ホウリ氏とNCJARは裁判で賠償請求を行うことにしました。1983年3月16日、ホウリ氏と24名の原告団は、政府を相手取り27億ドルの損害賠償を求める複雑訴訟形態の裁判を起こしました。

ホウリ氏は、2010年11月12日83歳でこの世を去りました。(2011年11月)

ペギー・ニシムラ・ベイン

強制移住(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

パット・アダチ

スロカン日系カナダ人収容所での家族生活(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

スミコ・コザワ

日系アメリカ人の避難 (英語)

花屋 (1916-2016年)