ディスカバー・ニッケイ

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信頼を得るためにしてきたこと(英語)

(英語)私たちは、教育に絶対の信頼を置いていました。自分が受けている教育への信頼度によって、その効果に雲泥の差がつきます。同時に、自分と教育の間に信頼関係があれば、その人は、自らも教育に関わるようになります。しかしながら、マンザナーでは、全く真逆のことが起きていました。これは、教育だけでなく、社会運動に関しても同じことが言えます。

人々の理解を得るには、運動の内容に信憑性があるかどうかにかかっています。単にリーダーの手腕だけではありません。運動の中心に居る人たちは、信頼に足る仕事をしなければなりません。そのようにして人々の信頼を勝ち得なくてはなりません。自分のお金を預けられる、というところまで信用してもらうことが重要です。我々は、何事も包み隠さず、帳簿も常に公開していました。必要な経費にのみ支払いを求め、家賃や給料などは発生させませんでした。ですから私たちは、最も有意義なことにのみお金を使うよう気を配りました。そしてそれが、人々の共感を呼んだのでしょう。 また、我々の考え方やその他の様々なこと、規約があったことも良かったのだと思います。人々の理解を得られるようになり、次第に物事は動き出しました。

でも、何かを上手くやる方法を聞かれても、私はどう答えればいいか分かりません。私たちの活動について教えることはできますけどね。それだけです。私たちの場合は上手く行きましたが、なぜ上手く行ったのか、それはわかりません。そういうものなのでしょう。


公民権 公民権運動 リドレス運動

日付: 1998年6月12日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・ホウリ氏は、1927年カリフォルニア州サンフランシスコに6人兄妹の末っ子として生まれました。第二次世界大戦の勃発と同時に、家族と共にカリフォルニア州のマンザナー強制収容所に収監されました。高校を卒業した1週間後、ホウリ氏は強制収容所からウィスコンシン州に移り、ウィートン大学に入学しました。1945年3月、ホウリ氏は、父親に会うため再びマンザナーを訪れましたが、許可証を持たずに来訪したとして身柄を拘束されました。さらに、彼個人に対する立ち退き命令が下され、その日の深夜までカリフォルニア州外へ強制退去させられることになりました。その時、ホウリ氏には銃口が突き付けられていました。

戦後、ホウリ氏は、日系アメリカ人市民同盟(JACL)のメンバーとなりましたが、反戦運動や公民権運動に対するJACLの無関心に失望しました。JACLが、議会の委任を受けて強制収容に関する調査活動に乗り出したことを受け、ホウリを中心とするシカゴとシアトル支部の反対者は、1979年5月、政府による個別補償を求めるため、全米日系アメリカ人市民連盟(NCJAR)を立ち上げました。当初、ホウリ氏とNCJARは、マイク・ローリー下院議員(ワシントン州選出)に個別補償の法案化を依頼しましたが、廃案となったため、ホウリ氏とNCJARは裁判で賠償請求を行うことにしました。1983年3月16日、ホウリ氏と24名の原告団は、政府を相手取り27億ドルの損害賠償を求める複雑訴訟形態の裁判を起こしました。

ホウリ氏は、2010年11月12日83歳でこの世を去りました。(2011年11月)

ヘンリー・ミヤタケ

荒波を立てるな (英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

ヘンリー・ミヤタケ

スパーク・マツナガ氏との会談(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

ヘンリー・ミヤタケ

共通の目的のために (英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

ヘンリー・ミヤタケ

歴史は変化し続ける(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

クリフォード・ウエダ

人々の考えを改めさせたジョン・タテイシ氏の役割り(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

上杉 武夫

ニューヨークで学んだ後、日本に帰国(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

上杉 武夫

米国に残り市民権を取得する決意(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)