Tomoko Yamaguchi

文学博士(アメリカ文学)。テクストおよびその周辺を読むことによって、社会の諸相を読み解くことを目指している。アジア系アメリカ作家、とりわけ日系作 家による作品を読んでいる。主な研究成果は、共著『アジア系アメリカ文学を学ぶ人のために』(世界思想社、2011年)、共著『エスニシティを問いなおす』(マイグレーション研究会編、関西学院大学出版会、2012年)など。

(2013年6月 更新)

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Dale Furutani にみる新たなアメリカニズムの予兆

日系アメリカ人三世デイル・フルタニのもっとも顕著な特徴は、その作品暦の変遷である。自身の経験に基づき日系の歴史や現在を描いた「ケン・タナカ」時代から、江戸時代のサムライ小説「マツヤマ・カゼ」時代、そして明治期日本を舞台にした「シャーロック・ホームズ」時代へという変貌は、きわめて特異であると同時に、米国内のエスニック文学をめぐる諸相の変化を反映するものである。

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フルタニは1946年ハワイ島ヒロに生まれ、5歳の時に一家でカリフォルニアに移住し、カリフォルニア州立大学で創作の学士号を、UCLAにて経営学修士を取得する。学生時代から各種雑誌に数多く投稿し、早くから書くことに才能を発揮したフルタニだが、壮年期は経営コンサルタントとして多忙な日々を送り、初の長編ミステリDeath in Little Tokyo (1996)を発表するのは50歳という遅咲きの作家である。

この作品と、翌年出版のThe Toyotomi Blades (1997)は、いずれもロサンゼルス在住の日系アメリカ人ケン・タナカが主人公で、年恰好といい居住地といいケンがフルタニの分身であることは間違いない。第1作はリトルトーキョーが舞台で、西海岸の日系人の風俗が詳述されるほか、謎解きの課程で強制収容を初めとする日系の歴史がふんだんに盛り込まれている。同作品でフルタニはアンソニー賞とマカヴィティ賞を受賞した。次作では主人公が日本に赴き、ルーツを求めるケンの異文化体験や、日本国内の多文化的状況が前景化される。これがフルタニの第1期、「ケン・タナカ」時代である。

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次いで翌年から3年連続で発表されるのは、がらりと趣を変えたサムライ小説3部作 Death at the Crossroads (1998)、Jade Palace Vendetta (1999)、Kill the Shogun (2000) である。江戸時代初期、豊臣の元家臣の主人公マツヤマ・カゼは今や素浪人の身の上で、亡き主君の妻の今際の命により、連れ去られた主君の娘を求めて諸国を放浪する。カゼは欠けるところのない見事なサムライで、その向かっていく敵はどんどん強大化し、最後には幕府全体を相手にする大団円ののち、無事主君の娘を捜し出してシリーズは完結する。

デビュー作以来5年連続の長編出版という多作ぶり、しかもその間に大きく方向転換を図ったフルタニだが、その後は長らく沈黙が続く。健康を害し、闘病生活を送っていたためである。そして6度の手術を経た12年後の2012年、フルタニはまたしても華麗なる転身を遂げ、The Curious Adventures of Sherlock Holmes in Japanを出版する。

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舞台は明治中期の日本、かの有名な英国人探偵シャーロック・ホームズが身分を隠し、シガーソンなるノルウェー人探検家として軽井沢に滞在していたという設定である。類まれな鑑識眼と推理力をもつシガーソンが、渡辺医師宅に寄宿し、同医師の助けを借りつつ軽井沢で数々の事件を解決する。ホームズとワトソンになぞらえた、シガーソンと渡辺医師のコンビで展開する冒険推理短編集なのである。

奇想天外と思える設定だが、実はシガーソンはシャーロック・ホームズの偽名のひとつであり、一時この偽名を使ってアジア方面に潜伏していたことはシャーロキアンには周知の事実である。ホームズが“baritsu”なる日本の武術を身に着けた日本通であることも知られている。また当時の軽井沢が外国人らに避暑地として好まれ、万平ホテルを中心に彼らの社交場が展開していた史実もある。このように、一見途方もなくみえる設定の背後には綿密な調査と構想があり、フルタニらしい遊び心もふんだんに盛り込まれているのである。

またフルタニのルーツ希求の思いが込められていることも特徴である。作品は8つの事件にまつわる8篇の短編と「著者まえがき」「著者あとがき」からなるが、この「著者」とはフルタニ姓をもつ日系米人作家すなわちフルタニその人という設定なのだ。日本滞在中に祖先の情報を求めていたフルタニが、軽井沢で骨董店を営む同姓の老女に巡り合い、同じ一族の人間で作家でもあるあなたにぜひ受け取ってほしいと軽井沢彫りの文箱を託される。中身は日英両語の混じった渡辺医師の手記であり、これをもとにフルタニが英語で本書を書き下ろしたという構成なのである。

この作品は、シャーロック・ホームズが明治期日本に滞在して数々の事件を解決する愉快な冒険探偵小説であると同時に、自身のルーツを求めるフルタニの長い旅の一里塚でもあるのだ。

フルタニは、自身のルーツを強く求める人である。病後その気持ちがさらに強まったことを、筆者とのインタビューおよびその後のメールで繰り返し語っている。母方の祖父母が山口県沖家室島出身でることはわかっているが、明治初期に小舟で山口県周防大島に到着した松平姓を名乗る一族の先祖については何ら手がかりが得られていない。フルタニは何度も日本を訪れ戸籍の入手等も試みたうえ、父方の先祖を求めるためにはDNA判定まで行ったとのことだが、残念ながら得るところは多くなかったとのことである。

「ケン・タナカ」時代から「マツヤマ・カゼ」時代さらに「シャーロック・ホームズ」時代へと変貌していくなかで、フルタニは一貫して自らのルーツを求め続け、文化的差異や異文化表象の記述を通じて自身のアイデンティティを模索し続けている。

エスニック文学は、エスニック少数派に属する人々が自伝的かつ史実に基づき自分たちの過去と現在を語る作品群として、ひとつのジャンルを確立した。どの集団にも「語られるべき過去」「苦難の歴史」といったものがあり、まずはそれが語られるわけだが、個々の作家でみても、○○系エスニック文学というサブ・カテゴリでみても、同じ主題ばかりを書き続けることには無理がある。また現代活躍中の作家には、すでに主流派への同化を相当に果たしている者が多い。結果、作家が選択的に獲得した「想像の記憶」による作品が多くなる。それでもなおエスニック文学の流れを汲む作品群は、自身のルーツやアイデンティティの希求が主要なテーマとなる。

ゴードン・マシューズは、現代社会に生きる私たちは、地球規模の「文化のスーパーマーケット」から自身の帰属すべき文化やルーツを消費者として選択していると述べ、“Searching for Home in the Cultural Supermarket” と題した最終章を次のように締めくくっている。

“But finally, you can’t go home again: there’s no cultural home left to go back to. This situation may be celebrated or denied, raged at or reveled in; but this is the world in which more and more of us now inescapably live” (197).

マシューズのいう状況は、21世紀の現在、多くの社会で既成の事実となりつつある。建国当時から …

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来日就学生物語 ~マイグレーション研究会メンバーによる移民研究~

第4回(後編) 彷徨(咆哮)する魂 ―帰米作家あべよしおの軌跡―

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3. あべの特異な作品世界

1972年に出版された3巻本『二重国籍者』の、第1巻はサンタ・アニタの仮収容所が、第2巻はグラナダ転住所が舞台であり、第3巻はインドでの連合軍情 報部員としての生活が描かれる。つまり自伝的とはいうものの、あべが3巻を費やし克明に描いたのは収容所時代と続く数年のみである。帰米としての波乱に満 ちた生涯のなかで、特に収容所生活を描こうという明確な意図があったわけだ。しかし出版当時はまだ一般に収容所体験が語られることがなく、ほとんど無視さ れる結果となった。別の言い方をすれば、内容と出版時期がうまくかみ合わなかった不運な作品ともいえるだろうか。

しかし何といっても『二重国籍者』を他と一線を画する作品と感じさせ、収容所を描いた作品を読みなれた読者にも一種異様と映る要因は、その露悪的と もいえる容赦のない筆致だ。収容所内の人間模様はこれまでさまざまに描かれてきた。家庭内の不和や断絶、世代間の対立や忠誠をめぐる争いなど、否定的な側 面も描写されてきたが、総じて収容所内の人々は、理不尽な捕囚の辱めを受けながらも「ガマン」を自らに課す善人たちだった。ところがあべ作品では、人間性 の暗部が赤裸々に暴露される。バチェラーズ・クォータと呼ばれる独身宿舎での「ブランケかつぎ」たち(毛布を担いで農場を転々とする季節労働者で、写真婚 で妻を呼び寄せる資力がなく独身を余儀なくされている人々)の放談ぶり、「草の葉後家」(夫が兵役中もしくは抑留中で、独居生活を送っている夫人たち)の 乱行ぶり等々、枚挙にいとまがないが、それを引用によって示すのは容易でない。過激な表現が時折あるのでなく、全編おしなべてそうだからだ。二世の娘をも つある母親は「このキャンプにはどんな素性のものがいるかわかったもんじゃない」(第1巻261)と嘆じ、「腐れ切ったキャンプにいるよりよそへ行ってく れたほうが安心。イチゴや野菜とおなじで、わるいやつがまわりにあると腐りがまわるのが早い」と、娘の早い出所を願うのである。かつて、またおそらく今後 も、この作品以上に赤裸々かつ露悪的に収容所体験が語られることはないだろう。

ところでこれは『二重国籍者』に限ったことではなく、あべ作品おしなべての特徴だ。『NY文藝』では第2号以降、前号の合評会の模様が掲載されてい るが、たとえば第2号では匿名で、創刊号のあべ作品に対して「光がまるで感じられない暗い作品だ」「初めから終わりまで救いがない」(20)といった批評 が相次ぐ。第5号の合評会では発言者が明示され、他ならぬ秋谷一郎がこう評している。「非常に物語が悲惨で、(中略)餓鬼道の要素が重なり合っているよう で、こう何か、人間は何か救われないものかのような感じで書かれている」(152)。こうした感想が、一般読者ではなく志を同じくする同人仲間からあがっ ていることに、作家としてのあべの業の深さを感じずにいられない。

4. 帰米という経験から学ぶこと

あべと秋谷の道を分けたのは何かという問いが、すぐさま浮かぶかもしれない。しかしむしろ、対照的とみえる二人の人生が、共に帰米という経験に発している とみる視点こそ重要ではないだろうか。もとより帰米とは、周縁化された日系コミュニティにあってさらに周縁化を余儀なくされた人々だ。日系人は誰もが、国 家および文化の狭間にあってさまざまな苦難を強いられた。しかし多感な時期を日本に過ごし、戦時中は敵性外国人として収容所に送られ、収容所時代もその後 も常に異質分子として同胞に忌避されがちであった帰米にとって、「自分とは何者か」という問いは、幾重にも深く重くのしかかったことだろう。そしてあべも 秋谷も、この問いと真摯に向き合って生きたことは間違いない。その進んだ方向が対照的にみえるとしても。

『NY文藝』同人のはやしてつまろは、第8号で、あべの「ルーミング・ハウス」なる作品を次のように評している。

これは一見疲れた小説である。カミュの『ペスト』や『異邦人』を連想させる希望なき人生、救いなき人生に、希望と救いと意味を求める大野の姿を、冷 酷な筆致で描いている。救いなきことを半ば知りながら、それを求めざるを得ない人間は、あべ氏の得意とする人間像のひとつである。(84)

他ならぬあべ自身が「救いなきことを半ば知りながら、それを求めざるを得ない人間」であった。誰よりも重く、その業を背負って生きた人でもあった。 モデルマイノリティの名に相応しく抑えた筆致の多い日系作家のなかにあって、あべの赤裸々かつ容赦のないスタイルはきわめて特異であり、読者に苦痛を強い た。また収容所体験を世に出そうという強い使命感も、世に先んじていたがために、日の目を見ずに終わってしまった。しかし「自分とは何者か」という問い に、あべ以上に激しく妥協なく向き合った日系作家はほかにない。私たちは、あべよしおという作家を忘れてはならない。

参考文献
あべよしお. 1972. 『二重国籍者』, 東京:東邦出版社.
石川好. 1995.「解説:帰米二世という名の日本人」山城正雄『帰米二世:解体していく「日本人」』, 東京:五月書房.
カール秋谷一郎. 1996. 『自由への道、太平洋を超えて:ある帰米二世の自伝』, 京都:行路社.
篠田左多江, 山本岩夫編. 1998.『日系アメリカ文学雑誌集成・NY文藝』第13-15巻,東京:不二出版.

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来日就学生物語 ~マイグレーション研究会メンバーによる移民研究~

第4回(前編) 彷徨(咆哮)する魂 ―帰米作家あべよしおの軌跡―

1. 帰米二世の光と影――あべよしおと秋谷一郎

「あべよしお」なる帰米二世作家をご存知だろうか。その作品世界は熾烈で容赦なく、その人生は壮絶な闘いの日々であった。帰米という経験の闇の部分を誰よりも深く抉り出し、「自分とは何者か」という問いを過酷なまでに自らに問い続けた。書くことに救いを見出そうと同人誌を立ち上げ、生涯にただ1冊の自伝的大著を著した。しかし満を持してのその作品も世間に注目されることはなく、失意のうえ病魔にも冒されたあべは、妻と共に自死して果てた。没後30年近く経った現在、唯一の著作『二重国籍者』は絶版になって久しく、出版社も無くなっている。今回は、この忘れられた異才あべよしおに光をあてたい。

ところであべは、シリーズ第2回に登場したカール秋谷一郎 とほぼ同年齢、同じ時期に日本で教育を受け、開戦前の同時期に米国に帰国し、ともに戦時中は強制収容を受け、戦争後期は日米両語をあやつれる帰米の強みを生かして米国政府の諜報機関で働いた。また戦後は東海岸に移住し、共に同人誌『NY文藝』を立ち上げた。つまり二人はきわめて似通った経験を経て、共に文筆の道を志した、いわば盟友なのである。

しかし二人の辿った後半生は、対照的なものだった。秋谷は敬虔なクリスチャンであり、晩年には長年にわたる人道主義・平和主義的活動に対し「Martin Ruther King Jr. 生涯の業績賞」を受賞した。秋谷の人生を、帰米という経験を正の座標に転じることに成功した人生とみるなら、あべのそれは、どこまでも負の座標を掘り下げることをやめなかった人生ともいえるだろう。

2. 帰米という経験

当コラムの読者諸氏にはすでに馴染みの深い言葉だろうが、「帰米」なる人々について、あらためてふれておきたい。「帰米二世」もしくは単に「帰米」と呼ばれる人々とは、ひとことで言うなら、アメリカ生まれの二世のうち幼少期から少年期・青年期にかけてを両親の祖国日本で過ごし、その後アメリカに帰国した人々である。子の成長期に親子が離れ離れに生活するという特殊なケースがなぜ多数発生したのかといえば、二世たちが成長期を迎える二十世紀初めから1930年代にかけては反日運動も各所で厳しさを増し、そのようななかで子らが教育を受けることを一世の親たちが憂慮したことがひとつある。また、アメリカ生まれのわが子が、英語を母語とし自分たちや祖国の人々とは意思疎通のままならない完全なアメリカ人に育つことを危惧したことがある。日系の人々が帰化不能外国人であった戦前、いずれは日本に帰ることになろうと、多くの一世が考えていたのである。

どのくらいの年齢で日本に来たか、どれほどの年数を日本に過ごしたか、単独での日本滞在か母親や兄弟など他の家族も一緒であったか等、彼らをとりまく状況は決して一様ではない。帰米の多くは日米開戦前に帰米を果たしているが、なかには終戦後まで帰国がかなわず、戦時を日本に過ごした人々もいる。そのうち広島・長崎の出身者は、結果として「被爆帰米二世」となったわけだ。長崎出身者についてその正確な数値は知られていないが、広島出身の被爆帰米二世はその数約500人といわれている。無視できない数字である。また終戦後も米国に帰国せず、今も日本に暮らし続ける二世たちもいる(もちろんその人々は帰米とは呼ばれない)。

このように、帰米と呼ばれる人々の経験は多様であって、決して彼らをひとしなみに扱うことはできない。しかし一般に言われることは、青少年期を日本に過ごしたため英語が完璧ではなく、一般の二世より日本人的精神性や態度を色濃く身につけているために、日系人コミュニティのなかでは疎外されがちであった。戦前に帰米を果たし強制収容を経験した帰米たちは、収容所内で異端視されることも多々あったようだ。また何より彼らは、感じやすい時期を日本に過ごして日米二つの文化に身をおいたことにより、青年期に特有の「自分とは何者か」という問いに、人並み以上に苦しむことになった。さらに、第一と第二の祖国が戦争をするという状況は、戦時を日本に過ごして敗戦を経験した場合も、米国に過ごして強制収容を受けた場合も、きわめて過酷なものであったことは間違いない。

石川好の「(帰米という言葉は)ほとんど軽蔑用語に近かった」(3)という言葉が、彼らのおかれた状況を端的にあらわしている。アメリカ社会のなかで周縁化された日系コミュニティ内部にあって、さらに周縁化され差別されがちであった人々である。多くの日系人が経てきた苦難を、二重に味わってきた人々ともいえるだろう。彼らに目を向けることで、社会のなかで周縁に位置する人々の経験を、私たちは伺い知ることができる。

3. あべよしお略歴

あべは1911年オレゴン州ポートランド生まれ、10歳のとき父母と共に父の故郷岡山に赴き、岡山一中を4年で中退して上京し、短期間だが早稲田大学に在籍する。前述の自伝的作品によればこの時期に、反体制運動に関わり投獄され、拷問なども受けたらしい。そうした状況から逃れるように1936年、父母を日本に残して帰米し、オレゴン大学に学ぶ。

大戦中は、サンタ・アニタの仮収容所を経てコロラド州のグラナダ転住所に収容される。戦争後期は、連合軍の対日情報部員としてインドに渡る。終戦後はニューヨークに再定住し、1950年より『北米新報』文芸欄を担当、この頃すでに米国共産党に入党していたという。そして1955年、秋谷らとともに『NY文藝』を創刊。1号から5号まで編集・発行責任者を務めたのち、1960年、秋谷に同職を託し、前年に結婚した妻(『NY文藝』同人の桜庭ケイ)と共に日本に渡り、鎌倉に居を定める。日本で作家として立ちたいというのが帰日の理由であった。

鎌倉では、「鎌倉文芸懇話会」を経て、1966年「日本民主主義文学同盟鎌倉支部」の結成に携わり、支部長に就任する。また日本共産党員としても活発に活動する。あべの生涯唯一の著書となる『二重国籍者』は、当初は『民主文芸』に連載され、1972年に東邦出版から上梓された。

「日本民主主義文学同盟鎌倉支部」を結成してから、この自伝的小説の出版記念会の頃までが、あべが日本でもっとも精力的に活動した時期らしい。饒舌で酒好きで、ウィスキーのビール割り(本人はそのカクテルを「ビル・ボイラー」と呼んでいた)をこよなく愛し、鎌倉支部の忘年会・新年会は徹夜が常であったとか。しかしその後心臓を患って禁酒・禁煙を余儀なくされ、次第に人を避けるようになる。心臓病に加え、末期の直腸ガンに侵されていたという説もある。『二重国籍者』が上梓されたときのあべの喜びようは大変なものだったというが、案に相違して世間の耳目を集めるには至らず、そのことへの失意も大きかっただろうと、『NY文藝』を通じてあべをよく知る石垣綾子は語っている。1981年1月15日、鎌倉の自宅にて妻との心中遺体が発見される。死後1ヶ月近く誰にも気づかれず放置されたままという寂しい死であった。

後編>>

 

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