Yukikazu Nagashima

Born in Chiba City and graduated from Waseda University. In 1979, he moved the U.S. He worked at California Daily Newspaper and joined the Japanese editorial team at The Rafu Shimpo in 1984. In 1991, he became Editor of the Japanese department. He left the company in August, 2007. In September of the same year, he received an award by the Consulate-General of Japan in Los Angeles. He has published a series of articles titled “Profile of Nikkei Contemporary History” in TV Fan introducing the Japanese and nikkei in America. Currently he works as an editor of “J-Town Guide Little Tokyo,” a community magazine in English which introduces Little Tokyo.

Updated August 2014

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About My Father, Yoshitaro Amano – Memories from the eldest daughter, Hamako - Part 2 of 4

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Living with her father, however, was seemingly no different than living without him. “Every night, my father would go out to different places. Sometimes it was for business, and sometimes it was to give a speech or lecture. When I saw him once in a while, it was like seeing a stranger.”

Hamako lived with Amano in Kugenuma for 4 years, and her encounter with Harry was completely accidental. One day, on her way home from the optometrist in Kamakura, she was waiting on a platform for her train when somebody started talking to …

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About My Father, Yoshitaro Amano – Memories from the eldest daughter, Hamako - Part 1 of 4

There are many stories about the life of Yoshitaro Amano (1898-1982).  There are several biographical articles about him, and Amano himself authored a number of publications. His accomplishments include entrepreneurial success in Central & South America, investigative research of the Andean Civilization, a museum featuring collections of his archaeological artifacts, as well as a medal of honor from the Peruvian government. His footsteps are also covered in detail on the “Japan-Peru Association/Friends of the Amano Museum [Asociacion, Nippo-Peruana/Amigos de Museo Amano]” website.

However, according to Yoshiro Masuda—emeritus professor of Latin American history at Tokyo University, who worked …

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日系仏教徒らの戦争

第3回 母を殺した国の兵として -水野ハリー義徳さん-

第二次大戦中、多くの日系人が「敵性外国人」として強制収容されたが、同時に、多くの日系人が米国の兵士として戦場に赴いた。強制収容所に親を残したまま、そこから志願して兵役に就いた日系の若者たちもいた。彼らは、その屈折した心情を晴らすかのように、戦場で数々の殊勲を上げたが、第二次大戦後、米陸軍の軍属(アーミー・シビリアン)として日本で働き、軍事情報部(MIS)部員として朝鮮戦争に従軍した水野ハリー義徳さん(83)=ユタ州ビンガム出身=の場合、屈折の度合いはさらに大きかったのではないかと思われる。小さいころから仏教徒として育てられた水野さん。米軍による空襲で母親と妹が殺されたことを知った上で、それでも「アメリカには恩がある」という親の言葉を心に、その国の兵士となって戦ったのだった。

1944年末ごろから、米軍は日本本土の空襲を激化。翌45年3月10日の東京大空襲では約10万人が死んだ。静岡県清水市が爆撃を受けたのは同年7月7日のこと。軍需工場があったために狙われた。

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水野さんらが日本に行ったのはその前、1938年のことだった。沼津出身の父親は日露戦争後、米国に渡り、最初は農業に従事。その後、鉄道敷設工や銅山の鉱夫として働いたが、そうした苦労がたたってか、水野さんが小学校四年生の時に死去。当時七人の子供を抱えていた清水市出身の母親は、義兄から「面倒をみるから帰ってこい」と言われ、日本に帰ったのだった。夫の遺骨を郷里に埋葬するためでもあった。

数年後、領事館から手紙が届く。日米関係が悪化しているから、米国に戻ったほうがいいとの勧告だった。水野さんと二人の姉は米国に戻った。

日本には母親と姉、妹、弟が残ったが、ようやく米国に帰る手続きを終え、浅間丸で横浜を出港まではよかった。しかし、途中で船は引き返した。日本の仏印南部進駐を受け、米国政府が国内の日本資産の凍結や石油の対日輸出禁止などをの制裁措置を発表したため、日本資産の一環として浅間丸が接収される可能性を恐れたのだった。こうして母親らは、日本から出ることができなかった。

そして、日米開戦。水野さんはユタ州の叔父のところに住んで、中学校に通っていた。ユタ州の日系人は立ち退きの対象になっていなかったが、警察に「家から10マイル以外のところには出るな」と言われたという。水野さんが高校を卒業した年に終戦となった。

その翌年、水野さんは再び日本の土を踏む。米陸軍将校らの世話をする軍属としてだった。そこで母親と妹が米軍の空襲で死んでいたことを知った。清水大空襲による死亡だった。

「従兄弟が興津の橘に住んでいて、清水がやられたというので、自転車で見にいったら、玄関のところに入歯が落ちていたという。『やられたな』と思ったら、もう骨だけになっていたという話だった」

水野さんはたまらなかった。そのショックは、怒りとなって爆発する。当時多くの人々が疎開していたのに、母親らは「してはならぬ」との通告を受けていたため、清水市にとどまった。それで空襲に遭った。だから、そんな通告を実際に与えた日本の警察に反発。「警察を見たら、喧嘩していた」。空襲を指揮した米国の司令官にも食いついた。「司令官は何も言わなかった」。戦後六十五年が経った今、「仇を撃つつもりだったのか。今から考えると、何であんな馬鹿なことをしたのかと思う」と言う水野さんだが、いかにショックが大きかったかを如実に物語るエピソードと言えそうだ。

5年後の1951年、日本から再び米国に戻り、ロサンゼルス市立大学に入学したが、1年もしないうちに、今度は徴兵され、朝鮮戦争に従軍した。

「小さい頃から親によく言われてました。あなたたちはアメリカに生まれて、アメリカの学校に行かせてもらって、アメリカの教育を受けさせてもらった。だから、アメリカには恩がある。アメリカのために尽くす義理がある。恩返しを忘れないように」

母親や妹が米軍の空襲で死亡したことを知ってから5年後の米軍入隊。その時どんな心境だったか。

ちなみに、水野さんによると、数々の殊勲を上げた442部隊の隊員はじめ、第二次大戦に従軍した日系兵士には仏教徒が多かった。特にハワイからの日系兵士がそうだった。お札を持ち、数珠を手にしていたことで分かったという。水野さんの義兄や叔父も442部隊に所属。水野さんも小さい頃から日蓮宗の信徒として育ち、今でも毎週日曜日、説教を聞きに住んでいるオレンジ郡サイプレスからロサンゼルスのお寺に娘さんと通っている。

 * 本稿は、週刊「仏教タイムス」(2010年7月22日)に掲載、加筆・修正したものです。  

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日系仏教徒らの戦争

第二次大戦時の日系人強制収容は、米国史における大きな「汚点」として、1988年に当時のレーガン大統領が謝罪、収容された人たちには一人2万ドルの補償金が支払われたが、一方で、日本舞踊や詩吟、そして各種の文芸まで、収容所の中でさまざまな日本文化が育っていったのも事実だった。収容所が大勢の人たちに、日本文化との「出会いの場」となったのだ。仏教と出合った人もいた。後に曹洞宗北米別院禅宗寺の婦人会会長を務める長谷川良子さん(86)も、そんな一人だった。

戦争が始まった年の春、長谷川さんは米国に戻った。出身はカリフォルニア州北部の街ヘイワード。6歳の時に両親に連れられて神奈川県小田原市へ。二人の弟とともに祖父母の下に預けられ、以来、日本での生活を送っていたが、戦争の足音が次第に大きくなってきたので、両親が待つサンフランシスコに戻った。

しかし、それからわずか半年後に日米戦争が勃発。それに続き、強制収容されることになるなどと一体だれが想像できたであろう。西部諸州に住んでいた日系人約12万人の強制収容である。

「本当に混乱しました。呆然として、『なんで』『なんで』って。まったくわけが分からなかったんです」。これでは、まるで強制収容されるために米国に戻ったようなものではないか。

長谷川さんらは最初、サンフランシスコ近郊のターラックという所に急設された「アセンブリーセンター」と呼ばれる集合所に送られた。内陸部に収容施設ができるまでの臨時収容施設だった。

長谷川さんはそこで、後に曹洞宗北米開教総監となる鈴木大等氏と出会う。鈴木氏は日曜学校のような集まりを毎週開いており、般若心経の教えを説いていた。運命の出会いだった。

「呆然として、何をしにアメリカに戻ってきたのか自問ばかりしていた時に聞いた般若心経の教え。心を和やかにしてくれたし、信仰の大切さを教えてくれました」

ターラックから長谷川さんらはアリゾナ州ヒラにできた収容施設に。さらに、そこからカリフォルニア州北部のツールレークの施設に送られた。長谷川さんはいわゆる「ノー・ノー組」だった。

「ターラックから鈴木先生がどこに送られたのか分かりませんでしたが、ツールレークでは意外とみんなしっかりしていて、収容所のバラックを住みやすいように工夫するなどしてました」

ツールレークは計10カ所に造られた強制収容所の中で最も多くの日系人が収容された所で、最高時で一万九千人が収容された。それだけに日本的な雰囲気は強く、さまざまな文化活動が行われ、それぞれのブロックには日本語学校もできた。

「国民学校と呼んで、第一から第八までありました。私は第一国民学校で教科書を作るのを手伝ったのですが、そこで教師を勤めていた主人に会ったんです。やはり小田原の出身で、その時はただ『同郷の人』というだけだったのですが、心に残った人でした」

ツールレークでも日曜日に仏教の説教があったが、ほとんど行かず、そして終戦。長谷川さんらはサンフランシスコに戻ったが、強制収容で財産を失ってしまっていたために、暮らしの建て直しは大変だった。戦前には果樹園を経営していたが、戦後は商売するだけの資金はなく、両親はそろって洗濯屋に勤めた。長谷川さんと弟二人は、スクールガール、スクールボーイという戦後の出発。「そうしなければ、学校にもう行けませんでした」

その後、ロサンゼルスに戻っていた夫と遠縁の親戚を通じて再会し、1949年に結婚した。禅宗寺で式を挙げたが、司式を務めたのが何とターラックの鈴木大等氏。「縁というものを感じました」

結婚を機に仏教にのめり込んでいった。戦時中の祖父母の死去も大きかった。「私を育ててくれた人が死去したのに、戦時中だったために何もできなかった。遅ればせの恩返しのようなつもりで、仏教に入っていっていきました。ご先祖さんはみんなこちらに持ってきています」

1982年に禅宗寺の檀家となり、85、86年と婦人会の会長を務めた。子どもがいないため、夫の新男さんが2002年に死去してからは一人住まいで、現在はボイルハイツにある敬老引退者ホームで暮らしている。

「主人が亡くなってから、ボランティアの活動や、坐禅、写経にと、もっとお寺が近くなりました。心の拠り所なんです。ターラックで聞いた般若心経。いまでも毎朝、読経しています」

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 * 本稿は、週刊「仏教タイムス」(2010年7月8日)に掲載、加筆・修正したものです。 。 

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日系仏教徒らの戦争

第1回 ツールレークから広島へ -安孫子洋さん-

今年は終戦から65年。戦争の記憶は年々風化の一途をたどるが、第二次大戦中に「敵性外国人」として強制収容所での生活を余儀なくされた日系アメリカ人や、まさにその強制収容所から兵役に志願した日系二世にとって、戦争の記憶はいまだに鮮明だ。その中には多くの仏教徒がいたが、そこには、仏教徒ならではの「戦争」や「戦後」があった。

* * *

西本願寺ロサンゼルス別院の現輪番、安孫子洋さん(69)=ロサンゼルス出身=が強制収容所に送られたのは、満一歳のころだった。母親と2歳半年上の兄とともに、アーカンソー州のジェローム収容所に収容された。そこからカリフォルニア州北部のツールレーク収容所に移され、そこで開戦直後にFBIによりニューメキシコ州の抑留所に連行されていた父親の義孝さんと合流。終戦の年の12月に日本に行った。

義孝さんは開戦当時、開教使としてオレンジ郡を中心に布教活動に従事していた。日米戦争勃発で、まず日系諸団体の有力者や日本語学校の教師、そして仏教の開教使らがFBIに連行されたのだった。

義孝さんは滋賀県出身。正光寺という寺の次男だった。ツールレーク収容所では第一国民学校の教師を務めた。洋さんは、父親はあまり戦時中のことを話したがらなかったというが、義孝さんが日本に帰ることを決めたのは、妻の宣子さんの父親が「日系人は戦争でひどい目に遭っているから助けに行く」と言ってきたので、無事なところを見せるため、というのが当初の目的だったようだ。

安孫子さん一家はツールレークから汽車でオレゴン州のポートランドへ。そこから軍用船ゴードンで日本に向かった。船は日本に帰る人たちでいっぱいだったという。船が日本に近付き、富士山が見えてきた時だった。横須賀に入港する船が傾いた。みんなが富士山の見える側に移動したためだったという。しかし、横須賀に着いてから安孫子さんが幼心に目にしたものは、敗戦国・日本の惨状だった。

横須賀に着いてしばらくは軍人らの宿営のようなところに滞在。そこから上野へ行き、滋賀に向かった。いくつもの汽車を乗り継いで行く旅だった。「それは凄まじいものだった。汽車の屋根にも大勢の人たちが乗っており、窓はなかった。私は網棚に乗せられたのを覚えている」。母親はツールレークで生まれた娘を抱えていたが、とにかく列車は人でぎゅうぎゅう詰めだった。

汽車が京都駅に着くと、同じ年頃の子供たちが物乞いをしている場面に出くわした。汚い身なり。薄い毛布に身を包んで「おなかが空いたよー」と泣いている。自分は強制収容所に入れられていたにしろ、それなりの服装だ。食べ物だって、一応はある。収容所の中で描いていた日本のイメージと、あまりの落差だった。「まるで地獄図のイメージ。とにかくショックだった」

滋賀でも歓迎はなかった。家族を連れて帰ってきた義孝さんに、義孝さんの母親は「なんで帰ってきたんや」と冷たかった。「迎えに行く」と言っていた宣子さんの福井の実家でも対応は同じだった。

それから1年半後、ツールレークで生まれた妹が栄養失調で死んだ。二つ半だった。戦争による犠牲者と言っていいだろう。米国にとどまっていたら、死なずに済んだかもしれないのに。悲しみは深かった。

義孝さんはこの後、広島別院へ赴任。原爆で倒壊した本堂復興が主な任務だった。洋さんは爆心地に近い本川小学校に入学したが、校舎が原爆で全壊したこともあって、毎日あちこちの片付けをさせられた。同校では集団疎開しなかった児童ら400人以上が原爆の犠牲になっており、頭蓋骨が出てくることもあった。

そうした日々の中、級友が相次いで死んでいく。毎日一緒に学校に通っていた仲良しのよっちゃんも、最初は髪の毛が抜けていって、そして死んだ。「考えてみると、小学生のころから死と隣り合わせだった」

洋さんはそうした日本での幼児体験が、その後の人生を決する重要な要素だったと振り返る。

「記憶ができ始める4、5歳のころから10歳までを過ごした日本。そこで目にしたもの、体験したことはまさに敗戦の悲惨だった。それをどう見たらいいのか、どう考えたらいいのか。生死を乗り越えるものを探すようになったのは、小さい頃のそんな日本での体験があったからだと思う」

その後、広島別院から札幌別院に移動した義孝さんが肺炎を起こしたのがきっかけとなり、義孝さんの健康回復と子供たちの教育のため1954年、一家で米国に戻る。洋さんはアラメダ高校を出てから州立大学に進み、65年に卒業。徴兵でベトナムに送られる可能性があったが、「敗戦はつくらせてはいけない」と、兵役を回避し、宗教の勉強のため日本に行って、龍谷大学で仏教学の修士号を取得した。そしてインドを回って米国に戻り、サンノゼ別院、パラアルト仏教会、サンフランシスコ仏教会を経て昨年、ロサンゼルス別院の第九代輪番に。

「縁があってこういう過去を持つことができた。それを大切にしながら、体験で得たものを分かち合って行ければと思っている」

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* 本稿は、週刊「仏教タイムス」(2010年7月15日)に掲載、加筆・修正したものです。 

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