Yukikazu Nagashima

Born in Chiba City and graduated from Waseda University. In 1979, he moved the U.S. He worked at California Daily Newspaper and joined the Japanese editorial team at The Rafu Shimpo in 1984. In 1991, he became Editor of the Japanese department. He left the company in August, 2007. In September of the same year, he received an award by the Consulate-General of Japan in Los Angeles. He has published a series of articles titled “Profile of Nikkei Contemporary History” in TV Fan introducing the Japanese and nikkei in America. Currently he works as an editor of “J-Town Guide Little Tokyo,” a community magazine in English which introduces Little Tokyo.

Updated August 2014

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老いても書く喜び学ぶ -敬老引退者ホーム文章教室-

ロサンゼルスのボイルハイツにある敬老引退者ホームで昨年、ちょっと変わったクラスが開かれた。日英両語の文章教室である。同ホームには墨絵や陶芸などさまざまな趣味のクラスをはじめ、ヨガや太極拳などのエクササイズのクラス、カラオケや詩吟などの音楽関係のクラス、それに日舞やフラダンスなどの勉強会まで、合わせて30以上のクラスがあり、加えてトランプや麻雀などのゲームの時間もあって、クラスからクラスへとけっこう忙しい居住者も少なくないのだが、文章教室というのはこれまでなく、受講者らは「ためになった」「惚けの防止になる」「自分の文章を直してもらうなんて初めて。何度も『なるほど』と思った」と、一様に受講に満足気。書くということを通じて、いろいろなものをつかんだようだった。

クラスは「むかし、むかし― Once Upon a Time in My Life」というタイトルで昨年の春と秋に週1回、いずれも10週間にわたって開かれた。講師を務めたのは、春期が羅府新報の元英語部編集長でエドガー賞受賞の日系推理小説作家ヒラハラ・ナオミさん、秋期はヒラハラさんと私が共同で務め、ヒラハラさんが英語の文章、私が日本語の文章の書き方を指導した。春期のクラスを踏まえ、日本語専門の講師が必要と判断、私が起用されたという経緯がある。

文章教室の開講は、敬老のスタッフが「Poets & Writers」に連絡し「パートナーとして一緒に何かできないか」と問い合わせたことがそもそもの始まり。全米の詩人や作家らの団体「Poets & Writers」はちょうどそのころ、カリフォルニアとニューヨークに住む高齢者を対象に10週間2回のライティング・ワークショップを実施することを計画。そのための資金を「全米芸術基金(National Endowment for the Arts)」に申請する準備を始めようとしていたところで、敬老からの打診を踏まえ、同ホームを計画の共同推進団体として、講師を作家のヒラハラさんとして申請書を提出。これが通り、敬老引退者ホームでの文章教室が実現した。

春期は約10人が受講。英語を母国語とする人が多く、日本語を母国語とする人は3人ほど。唯一、英語を母国語とするロサンゼルス生まれのグレース・フジタさん(92)が日本語で挑戦しました。クラスではヒラハラさんが文章を書く際の基本を分かりやすく説明。一枚の写真を見て文章を書いてもいらったり、以前住んでいた家のことについて書いてもらいながら、①五感に訴えるように書く②会話を挿入する③直喩・隠喩をじょうずに使う―といったことを説いた。時には川柳の専門家を招いて話してもらい、川柳を作ってもらいながら、言葉の使い方について話したりもした。

秋期はやはり約10人が受講したが、日本語を母国語とする人が大半で、最年長の受講者は春期同様92歳の新宮浪さん。春期と異なり、クラスでは受講者に書いてもらった文章を匿名でテキストとして使いながら、それぞれの文章から一緒に学ぶという方法を取った。10週間を前半と後半に分けて、最初の5週間は「昨日の出来事」というテーマで書いてもらったものを使って、後半の5週間は受講者それぞれが自分でテーマを決めて書いた文章を使った。

「昨日の出来事」というタイトルの文章では、ダイニングルームで毎日食事をともにする人との時間の大切さを書いた人、教会の人々と話す楽しさについて書いた人、娘との会話について書いた人など、内容は多様だが、昨日のことを書きながらも、「戦争当時のことを話し合える」など、人生の年輪を感じさせるものが目に付く。自由題では「思い出嫌い」「敬老ホームに入居して」「遠い日の思い出」「私の生い立ち」など、それぞれ人生の豊かさが伝わる内容だ。

文章は宿題として書いてもらった。ほとんどの人が原稿用紙を使っての手書き。それを事前に全部タイプして、クラスで全員に配る。タイプ原稿には名前は入っていない。それをまず輪読。自分の文章を読むのではなく、だれが書いたか分からない状態で文章を読むわけだが、一人が読み進んでいるうちに、「あっ、これは○○○○さんだ」といった声が上がる。

輪読後、文章について気がついたことについて、全員に聞いた。ここのところの用語がおかしいという人、文法的に意味が通じないという人。そして私が解説する。

取り敢えず、句読点の打ち方から始める。そして主語と述語の照応、段落分け、用語、文法、一つの文の長さ、推敲など。エッセイのような文章を書くのは初めてという人がほとんどで、説明も念入りになる。クラスは1回1時間半。1回のクラスで取り上げることができる文章はせいぜい2、3人だった。

それでも、前半の5週間を終え、後半になると、やはり自由題で書きやすかったこともあってか、文章はがぜん良くなった。そして、最後は終業式。引退者ホームのアクティビティーセンターのステージ上でそれぞれ自分の作品を読み上げ、そのあと終業証書を手にした受講生らは、80歳、あるいは90歳になっても、一つのことをやり遂げた喜びにあふれていた。

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敬老引退者ホームのホームページに、秋期受講者の作品が一つ紹介されている。
アドレスは www.keiro.org/mukashi-toji

 

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culture ja

文化の深さに誘われ -三條勘菊さん-

今年(2009年)の第69回二世週日本祭のパレードが行われた日、踊りのグループを先導してリトル東京を一巡した三條勘菊さんは、パレードの終点となる一街とセントラル通りの角を曲がったところで、大勢の一般参加者に囲まれて、大きな笑みを顔いっぱいに浮かべていました。パレードには子供ころから何度も参加していたし、師匠の三條勘弥さんが振り付けるのを長年手伝っていましたが、自ら音頭の振り付けを担当したのは今回が初めて。その責任から、やはり「何事もなく、無事に終わってほしい」という気持ちは強かったと言います。

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「私は先に終わって、そこであとからくる人たちを待っていたら、みんなスマイルしているんです。だれもがいいフィーリングで踊れたんだなと思って、本当にうれしくなりました。振り付けを飲み込んでくれて、楽しく踊ったということ。一つの大きな舞台を終えた時のような感じでした」

その後、社中の名取や生徒ら30人以上に囲まれ、小さな子どもたちも含めて、一人ひとりの労をねぎらっていた勘菊さん。そこには、日本の踊りに長年携わり、その指導にあたってきた人の深い満足感のようなものがうかがえました。

ロサンゼルス・ダウンタウン東のボイルハイツ生まれ。4歳で日本舞踊を習い始め、9歳の時に五代目家元・三條勘弥さん(当時の坂東三春さん)について本格的に日本舞踊と長唄の勉強を始めました。日系二世の母親は「ここはアメリカだから、日本語や日本の踊りの勉強は必要ない」という考えでしたが、三重県四日市出身の父親が勧めたのでした。

その後、中学生になると、踊りよりも友達と一緒に遊ぶ時間の方が楽しくなり、踊りは止めたいとも思うようになるのですが、その時期を過ぎると、踊りそのものや踊りにまつわるいろいろなことにおもしろみを感じられるようになっていきます。そして19歳の時、三條勘弥さんの内弟子となることで、その後の人生の道筋が決まったのでした。

勘弥さんはその時までに、渡米して長唄を指導していた杵屋弥十郎さんと結婚。二人は長唄と踊りの指導でフレスノやサンフランシスコなども回るようになり、1956年にはロサンゼルスで「歌舞伎舞踊」の催しを始めました。勘菊さんはその稽古や、新しい踊りの習得などで、1968年から毎年のように日本を訪れるようになります。翌69年には二代目尾上松禄さんと三條勘弥さんとの三人で、国立劇場で「獅子の夢」を披露。また米国の映画に出演するなど、舞踊家としての歩を順調に進めていきました。指導は勘弥さんを手伝う形で、すでに20代で始めていました。

その後、勘弥さんのアイデアで、「歌謡舞踊シリーズ」も始めましたが、これは、もっと気軽に大勢の人たちに日本舞踊に親しんでもらおうという企画でした。「ラジオ小東京」の上手又男さんの司会で、最初は西本願寺別院のホールで、それから会場はホテルニューオータニに変え、日米劇場ができてからは、同劇場に移りました。

しかし、88年に病魔が勘菊さんを襲います。左の膝の裏に腫瘍ができたのです。がんでした。手術をして、化学療法(キモセラピー)と放射線療法を続けました。最初は何でもなかった化学療法も、回を重ねていくごとに辛いものになっていきます。嘔吐したり、頭髪が抜けたり。それでも、翌89年5月の歌舞伎舞踊のステージは欠かしませんでした。舞台の袖で、勘弥さんが心配してくれていました。

その翌月、勘菊さんが11回目の化学療法を受けている時でした。フレスノから帰って心臓検査の後、手術を受けた勘弥さんが、術後の容体悪化から急死したのです。みんな大きなショックに打たれました。それでも、10月の歌謡舞踊シリーズの舞台は、勘菊さんが中心になって務め、その後、翌年の勘弥さん追悼公演について相談するため日本にも行きました。

2003年から2005年までの3年間は日本に住んで、いろいろなことを学びました。それまでの訪日時は、約一カ月間のホテル住まいでしたが、それとは大きな違いです。学んだことは技巧的なことに加え、鳴り物、歌舞伎舞踊の歴史、舞台裏の作業、振り付け、衣装、小道具など、多々あります。そして何よりも、踊りを生んだ日本の生活を肌で感じて体で知ったことが、大きな収穫でした。

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隅田川が舞台になっている踊りがあります。隅田川の川の幅はどれほどか、川の流れの早さは…。住んでいたアパートの近くに朝顔を植えている家がありました。その前を通りながら「あー、これが夏。そういう気持ちが実感として湧いてきました」。そして、虫の音、雪の風景。そうした細かいこと一つひとつが踊りに役に立つ。

「日本文化って、習えば習うほど、まだまだ習うことがある。小さいことでも、あーっと思うことがたくさんあります」。勘菊さんは結婚もせず、日本の文化の奥の深さに誘われるように、長年修行に修行を重ねてきました。こうした話を聞きながら、その生涯が実感として、私に伝わってきました。

今年は勘弥さんが死去してからちょうど20年。二世週祭開催前には「三條勘弥の名を汚さないように」と肝に命じていた勘菊さんですが、どうやら、それ以上の成果が得られたことは確かなようです。何よりも、パレード直後の勘菊さん本人の笑顔が、すべてを物語っていました。今でも足のリハビリを週2回続けていますが、それをおくびにも出さず、日本文化の奥の深さを伝えるため、これからも幅広い指導を続けていくことでしょう。日本人街の繁栄を期す祭りへの関与も、今後さらに深めていくのは確実と思われます。

*本稿は『TV Fan』 (2009年10月)からの転載です。

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ある被爆者の挑戦 -ポール・エンセキさん-

在米の被爆者について、すでにいろいろなことが書かれてきました。さまざまな本も出版されており、もうほとんど語り尽くされたような感じもするのですが、先日、米国広島・長崎原爆被爆者協会の据石和さんから、ある被爆者の話を聞いた時には「やはり、まだまだ歴史の闇の中で埋もれたままになっている人たちは大勢いる」との感を強くしたものでした。

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その人は、第二次大戦時にマンザナー強制収容所で生まれ、広島で原爆に被爆したポール・エンセキ(煙石)さん(64)です。エンセキさんはこのほど、原爆被爆者手帳の取得を申請しました。建築士としてインドネシアに赴いて十五年近く。そうした生活の中で、「途絶えていた在米の被爆者との関係を回復したかった」と穏やかに話すエンセキさんですが、そこに、歴史に翻弄されてきたエンセキさんの、自己確認の思いもうかがえるような気がしました。すでに強制収容では保障を受け取り、一応のピリオドが打たれたのですが、もう一つ、被爆という一ページに終止符を打つために再度、歴史の轍に立とうとしていると言えるのかもしれません。

エンセキさんは大学を卒業してから、ロサンゼルスの企業に勤めていました。70年代から被爆者協会の活動に協力し、広島からの医師団による在北米被爆者検診ではリストを作成したり、会議の場所の提供するなどしていましたが、それは協会のメンバーとしてボランティア活動に積極的に従事していた母親に賛同してのことでした。

エンセキさんの母親の煙石ジュディ・アヤさんは、カリフォルニア州出身の日系二世です。日米開戦による日系人強制立ち退きでフレスノの仮収容所へ送られる直前に、日系市民協会の仕事で知り合った広島育ちの帰米青年と結婚し、マンザナー収容所で男児を出産。それから2カ月後の1943年9月、一家は突然、第二次交換船で日本に行くリストに入っているとの知らせを受けました。夫の兄が大使館勤務だったことで実現した話でした。ジュディさんは日本へ行きたいとは思っていなかったのですが、夫について子供とともにマンザナーを後にしました。それから東回りの船で日本へ向かい、途中フィリピンに5カ月間とどまった後、最終的に広島に着いたのは44年の春。夫は間もなく招集されて満州に派遣されました。

ソ連軍の捕虜となり一度は戦死と伝えられていた夫は、戦後引き揚げましたが、ジュディさんは、息子を連れて米国に戻ることを決意します。やはり、日本の生活にはついになじめなかったのでした。東京で二年ほど占領軍の事務の仕事をした後、47年に早々とハワイ経由で米国に戻りました。日系人の米国帰還が始まった直後のことで、ホノルルで星条旗を目にした時には涙を流しながら「サンク・ヘブン・アイム・ホーム」と口にしていたそうです。それほど米国人だったということでしょう。その後ロサンゼルスでは、市の自殺予防関係機関に勤務。その一方で、「何か英語を必要とすることでヘルプできれば」と被爆者協会の会員となり、熱心にボランティア活動に従事しました。在米被爆者について米国人に知ってもらうのにも貢献したそうですが、1980年に死去。ポール・エンセキさんは「母の後を継ぎたい」と、協会の活動の手伝いを続けました。

エンセキさんが、インドネシアに派遣されて以来途絶えていた在米の被爆者とまたコンタクトを取りたいと思ったのは、一つには、64歳になって、「他の被爆者はどうしているか」と気になり始めたことが背景にあったようです。ただ、やはり、そうして長年かかわっていた被爆者を取り囲む状況が現在どうなっているか気になったというのが、最も大きな要因でした。

インターネットで調べたのですが、被爆者協会と連絡がとれません。その後、在米の親戚を通じてやっと連絡が取れ、手帳の申請などについての詳細を聞くため昨年12月にインドネシアから訪米、据石さんに会って手続きのことや、申請の条件などについて聞きました。とりあえず、申請の時に必要な情報を書きとめておくことからスタートです。こうして、被爆者手帳取得へ向けての歩みが始まりました。

最大の問題は目撃者の発掘でした。少なくとも二人の目撃者が必要ですが、当時を知る親戚・縁者がほとんど死去したことに加え、被爆当時エンセキさんがわずか2歳だったこと、被爆2年後に早々と帰米したことなどもあり、目撃者を見つけることはきわめて困難とみられました。

それでも、ジュディさんの協会への貢献を忘れていない据石さんは、エンセキさんの被爆者手帳取得に向け、広島の知人や友人、市の関係者に積極的に協力を求めました。その中には、在米被爆者検診団の団長として何度か訪米した伊藤千賀子氏も含まれています。

そうした人々の尽力で、やっと二人の証人が確認できました。あとは、エンセキさんの証言を証人の証言と照らし合わせ、被爆が事実であることの最終確認です。

エンセキさんは現在、特に健康上の問題を抱えているわけではありません。それに、どちらかと言うと「静かに暮らしていたい」というエンセキさんですが、それだけに一層、被爆者として踏み出した新たな一歩の大きさを感じざるをえません。その一歩の重みを知っている据石さんは「手帳をもらったら、ぜひこちらでお祝いしたい」と、早くも胸を膨らませています。

*本稿は『TV Fan』 (2008年3月)からの転載です。 

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日本語で書こうとした理由 -グレース・フジタさん-

ボイルハイツにある敬老引退者ホームでこの春、ちょっと珍しいクラスが開かれました。同ホームでは、引退した日系人らが余生を有意義に楽しく過ごせるよう、各種の習い事から体操までさまざまなクラスを設けているのですが、この春開かれたのは日英両語による文章教室で、指導したのは、羅府新報の元英語部編集長、現在は作家として活躍している平原直美さんです。

クラスは週一回で全6週間。ホームの居住者ら十数人が受講しました。大半は米国生まれの日系二世で、日本生まれの日本人は3人ほど。二世はほぼ全員が英語で、日本からの人は全員が日本語で文章の書き方を習ったのですが、一人、帰米二世で日本語の文章の書き方を習っていた人がいました。「南加文芸」の編集責任者だった藤田晃さんの妻、グレース・フジタさんです。日本で高校を出ているからそれなりに日本語はできるし、「南加文芸」の編集責任者の妻でもあるのですから、日本語でものを書くのは当然と思われるかもしれませんが、グレースさんが書いた文章を見て、私は、少なくとも書くということに関しては、この人は英語の人であると思いました。それなのになぜ今、敢えて日本語で文章を書くことを習っているのか。私にはどうも、そこに何らかの深いわけがあるような気がしてなりませんでした。

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1918年、ロサンゼルス市生まれ。両親は山口県大島郡久賀町の出身です。小東京のメリノール学校を卒業し、12歳の時に母親と弟と三人で山口に。高校卒業後、大阪に出て、貿易関係の会社に勤めました。ある日、二世の友達と大阪駅の前で英語で話していたら、兵隊から「こら。家出娘か」と怒鳴られたこともあり、早く米国に戻ってきたくてしょうがなかったと言います。しかし、戦争のため帰れず、帰米したのは結局戦後。しばらく友人の父親のところで働いてから、日本航空が支店をロサンゼルスに開くということで、1954年に採用されました。それから31年間、同支店で主に米国人旅行者相手の接客業務を担当。使った言語はもっぱら英語でした。日本語でもの書くことはほとんどなかったと言います。だから、日本航空での仕事が日本語で書くことにつながったわけではないことは確かです。

晃さんとの出会いは、当時あった帰米の人たち向けのクラブのようなものでした。そこで、もっと米国での生活に馴染むようにとダンス・パーティーを催したのですが、あるパーティーで会った人が「自分の足を踏んだりして、まあ、なんて不器用なんだろうと思った」。それが晃さんでした。付き合が始まり、二人は結婚しました。

「南加文芸」は1965年の発刊です。戦時中、強制収容所内での文芸活動に携わっていた人たちが戦後「十人会」というグループを組織、そこから「南加文芸」が生まれました。それから25年間、ガリ版刷りの雑誌を発行し続けたのですが、その編集責任者だった藤田さんは「小説では『権威』で、みんなから敬われていて、藤田さんの批評なら『なるほど』と思ったものです」(「南加文芸」の編集スタッフだった山中眞知子さん)。編集会議はモントレーパークの藤田さんの自宅で開いていましたが、「結婚するまでは夫が文学をする人とは知らなかったし、私にはあまり書く機会はなかったので、会議の時はもっぱらお三どんでしたよ」と言うグレースさん。その時から、日本語で書くことへの関心が心のどこかでくすぶっていたのでしょうか。

藤田さんの作品は全部読みました。「一通り読んだ方がいいだろうと思って」。感想を聞くと、「別にね。あまり感動も何もないし。こういうものを書いているのか、と思ったぐらいですよ」。ものごとにこだわらない性格からの言葉でしょうが、ともかく、藤田さんの小説が日本語で文章を書こうという原動力になっているとは考え難いようです。

本を読むことは好きで、ロザムンド・ビルチャー、メイブ・ビンチーなど、好きな作家の作品は何度も読み返します。今でも毎晩、本を読みます。やはり英語の本です。英語の人ですから当然でしょう。ならば一層、日本語で書こうとする理由が分からなくなりました。

少なくとも、グレースさん自身「何で日本語にしたのかね」と、クラスでの選択が深く考えた上でのものではなかったことを示唆します。一方で、「負けず嫌い」というグレースさんのことです。二世の他の受講生らが英語で文章を書いているのに対して、帰米二世として、他の二世とは違う人生を歩んできたという自負のようなものがあって、それで敢えて日本語を選んだのかもしれないという気もしたのですが、その確信が得られません。

そんなことを思っていたら、グレースさんの口から予想していなかった言葉が漏れました。「最近の日本語には歯がゆくなる。変に省略したり、わけの分からない外来語を使ったり。きれいな日本語、純粋な日本語をどうして今の人たちは使わないんだろうね」

日本で過ごした15年間、そして小説家の妻としての長年の生活の中で培われた日本語に対する感性というものが、グレースさんの中にある。少なくともその感触をその時、得たような気がしました。

結局、グレースさんがなぜ日本語の文章の書き方を習おうとしたのか、その疑問に対するはっきりとした解答は得られませんでした。それでも私は、グレースさんの日本語に対するある種のこだわりは、恐らくこれからも続くだろうと思っています。3年前からとっているというペン習字のクラスのテキストを見せながら、クラスについてうれしそうに話すグレースさんの顔が印象に残っています。

*本稿は『TV Fan』 (2009年9月)からの転載です。

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解体していく「日本人」 -山城 正雄さん-

私がアメリカに来てから、この5月で丸30年になりました。すでに、日本で過ごした年月よりもアメリカでの日々の方が長くなっています。自分が日本人なのか、それとも日系人なのか、その辺の自覚が年々怪しくなってきていますが、それは別に今始まったわけでもありません。山城正雄さんの「帰米二世―解体していく『日本人』」(五月書房)を最初に読んだころは、すでにそうした、いわゆる「アイデンティティー」というものの揺れが生じていたように思います。

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ハワイ出身の山城さんは、2歳の時に沖縄に帰国、1932年、16歳でハワイに戻ってからいろいろな職業に就き、その後移り住んだロサンゼルスで大学に入って文学の勉強をしていたのですが、日米戦争勃発で強制収容所に送られ、そこで「鉄柵」という文芸同人誌を興しました。戦後は主に庭園業者として働くかたわら、文芸活動を展開。93歳になる現在も、羅府新報にコラム「仔豚買いに」を書き続けています。

山城さんが「鉄筆」の同人だった日系詩人・加川文一の詩碑を建てるべきだと言い出したのは10年ほど前のことでした。それから約5年後の2005年、遂にその夢を実現しました。もち論そこには大勢の人々の支援があったわけですが、加川文一のだれであるかを知る人もそう多くはない状況の中で成し遂げたのですから、そこにやはり、人を引っ張っていく山城さんの力を見ないわけにはいきません。

私が「帰米二世」を初めて読んだのがいつごろのことだったのか、はっきりと記憶していませんが、1995年1月の刊行からあまり日がたっていないころだったように思います。そこには、私の中の何かを刺激するものがありました。例えばこのような言葉です。「この国に20年なら20年、30年なら30年生きているうちに、自分の内部に何かが生成し、何かが解体しているのを、やがて意識するようになる」。それは「帰化したからとて、日本人の内容のままでアメリカ人に成り済ました人」とか「『腰掛け人生観』でアメリカ生活を送っているナマの日本人」についての話です。山城さんは「(そうした日本人は)いつでも移民史を振りだしに連れ戻し、初期の出稼ぎ時代と同じ濃厚な故国指向性を生きようとする」と言います。

こうした言葉で受けた刺激は次第に、私の中で私自身に対する問い掛けのようなものになっていきました。それは「お前は何をするためにアメリカにやってきたのか」「今ここでお前は何をしようとしているのか」という問い掛けでした。言うならば、アメリカという異国に生きる日本人としての自覚を迫るものだったと言っていいかと思います。個人的なことや仕事のことなど、確かにいろいろあったのですが、やはり「時の力」が生じせしめた問い掛けでした。

それから約15年後。私は還暦を迎えたその日に、マンザナ収容所跡地の慰霊塔の前に立ち、乾ききった熱風に吹かれていました。久し振りに日系史における重要な場所に立ち、そこで一体何を感じるか、自分を確かめてみたかったという、言わば文学青年的な気持ちでした。しかし、私の期待に反して、そこで私は、私の心に何も響いてくるものがないことに気が付いたのです。強制収容の問題は、究極のところで自分の問題となし得ない。そんな了解でした。そう思った時、ふと山城さんのことが心に浮かんできたのです。いや、正確には、山城さんの「帰米二世」です。マンザナで、深く自分が日本人であるということを意識させられたためだったのでしょうか。

そして今回、加川文一詩碑建立3周年を記念する催しをロサンゼルス市立図書館リトル東京分館で開くことになり、そのためにもう一度、山城さんの「帰米二世」を読み直してみました。還暦も過ぎて、残る人生をどのように生きるか、そんな自問が常にぼんやりと私の前にちらついているおり、「帰米二世」に生き方のヒントを探すような気持ちもありました。

残念ながら、いまだに「ナマの日本人」という指摘をきっぱりと否定する力が、私の中にはなかったのですが、それでも、催しでは、自分なりの「収穫」がありました。催しに向けての準備会では再三再四「僕はしゃべらないからね」と口にしていた山城さんが、集まった80人近い人々に向かって熱っぽく加川文一について語ったのです。「加川さんは本格的な詩人です」「詩碑は日系社会にできた初めての歴史的なモニュメントです」「『海は光れり』から入って行って、どうか自分で好きな加川さんの詩を選んでください」。そう呼び掛ける山城さんの姿に、私はなぜか、深く胸を打たれていました。帰米として、どちらかと言うと、あまり日の当たらないところをずっと歩いてきて、だから、晴れがましいことは嫌いで、人の前に立って話すなどは論外のことだった山城さん。その帰米二世の山城さんの中で、遂に解体しなかったもの、そして、これからも決して解体することはないと確信できるもの、それは取りも直さず、山城さんの中の加川文一その人であり、加川文一から学んだものであり、加川文一と山城さんとを結ぶ詩という文学だった。それが私の中で初めて、実感として感じられたのです。

「この国に20年なら20年、30年なら30年生きているうちに、自分の内部に何かが生成し、何かが解体しているのを、やがて意識するようになる」。私もそうしたものを意識するところまでやっと辿り着いたということなのかもしれません。生成したものが何なのか、解体したものが何なのか、それを言葉で表現することはまだできませんが、性急にその答を出す必要もありません。

あと何度か「帰米二世」を読むことになるでしょう。五年後に読んだらどんな印象を受けるか。10年後には、20年後には―。そして、それがどんなものであれ、私は今、その時その時の印象を素直に受け入れるだろうと静かに確信しています。 

*本稿は『TV Fan』 (2009年6月)からの転載です。

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