広瀬 寿秀

(ひろせ・としひで)

兵庫県出身。東北大学歯学部卒業。1995年に妻の実家がある青森県弘前市で広瀬矯正歯科クリニックを開業。診療の合間に津軽の郷土史を調べる。「明治二年弘前絵図」(2013), 「津軽人物グラフィティー」(2015)、「須藤かく―日系アメリカ人最初の女医―」(2017)の3冊の著書(すべて北方新社より)がある。2007年より「広瀬院長の弘前ブログ」を始める。

(2021年4月 更新)

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須藤かく —日系アメリカ人最初の女医— 第2部

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アメリカ留学

須藤、阿部、ケルシーらが横浜からアメリカに旅立ったのは1891年のことであった。二週間の船旅の後、サンフランシスコから大陸横断鉄道を利用して、まずはケルシーの故郷ニューヨーク州カムデンに向かった。ケルシーの母、アマンダは1871年に亡くなっていたが、父アサは90歳になってもまだまだ元気で、農業、共和党、教会の活動などで忙しかった。

アメリカへ着いた須藤と阿部は、まず、ケルシーの兄サムエルが住む近隣のフェアポートでアメリカの文化、習慣、マナー、語学を学んだ。その後、ペンシルベニア州フィラデルフィアの電気治療学校で学び、1892年にオハイオ州のシンシナティー女子医科大学(在学中ラウラ・メモリアル女子医大と名称変更)に入学する。

女子医大の授業料2500ドルを稼ぐため、二人は全米の22州以上の長老会教会を廻り、着物を着て、お茶や楽器を演奏し、日本文化を紹介して、寄付を集めた。一方ケルシーは、二人の授業料をサポートするため、日本で診察したお礼として患者からもらった品を売った。この時に売った漆工芸、鎧、日本刀、書画などは、現在でもケルシーの母校マウント・ホリヨーク大学とシンシナティー美術館に保管されている。

須藤と阿部は優秀な成績でシンシナティー女子医大を1896年3月に卒業し、ホームズ病院で眼科の研修を終了した。1897年10月に二人はケルシーと共にアメリカを出航して、11月4日に横浜に戻った。


横浜婦人慈善会病院

日本では、1900年まで女性が入学できる正式な医学校はなく、医者になるには、医術予備校に通い、医術開業試験に合格するか、外国の医学校を卒業する必要があった。須藤らは帰国後すぐに医籍申請をしたが、なかなか許可がおりなかった。そこでケルシーはアメリカ国務大臣や駐日アメリカ大使に訴え、翌年の1898年3月、二人はようやく医籍登録することができた。登録番号は、阿部ハナ:54、須藤かく:55であった。

この時すでに横浜では、かくの横浜共立女学校の同級生二宮わかと、シカゴ女子医大を1889年に卒業した菱川やす(医籍:19)が、貧者のための横浜婦人慈善会病院(根岸病院)を1892年8月に開設していた。ケルシー、須藤、阿部の3人は、京都に移った菱川に代わって根岸病院で働き始めた。

根岸病院は、当初、慈善婦人会の寄付をもって運営していたが、1900年頃から次第に経営が行き詰まってきた。さらに理事長にキリスト信徒以外の人がついたため、医療と伝道を目的としていたケルシーらと対立するようになった。またケルシーや須藤らが身に着けたアメリカ医療、ことに電気療法やハーブなどを用いた折衷医学(Ecletic medicine)は、ドイツ医学教育を受けた院長、廣瀬佐太郎から否定され、医療方針も対立した。

こうした中、ケルシーは、中国の義和団事件で負傷した宣教師の治療や貧困家庭の世話をしていたが、次第に“宣教医”という存在自体が時代遅れとなった。貧者のための医療という高い使命感を持って活動しても、伝道協会から援助が得られず、また地元医師会からも異端視され、協力が得られず、次第に日本での医療活動に疲弊した。もともと体調に不安があったケルシーは、須藤、阿部という若い後継者もできたので、そろそろ引退しようと考え、アメリカへの帰国を決意する。

須藤と阿部にとってケルシーは恩師であると同時に、”companion”という信仰に結びついた深い仲間であったので、ケルシーがアメリカ帰国を決意すると、根岸病院の関係者らの強い引き止めにもかかわらずに、一緒にアメリカへ渡航することにした。1902年、須藤は、ケルシーと阿部と共に日本での活動を終了して再びアメリカの地を踏んだ。


アメリカでの生活

1902年、3人がアメリカへ渡った時、他には三人の日本人が一緒だった。かくの妹まゆの嫁ぎ先成田ヨソキチ(Yosokichi)37歳、と子供達、長女マヤ15歳、長男コーイチ10歳であった。カムデンのケルシーの父の農場を手伝うためにヨソキチ一家を呼び寄せたが、須藤にとっては妹の子供たちをアメリカで教育したいという気持ちも強かった。ヨソキチには、他に3人の娘次女カツ(ジーン)、三女レン、四女スエがいたが、まだ小さかったので、母と一緒に日本に残った。

1907年、ケルシーと阿部が日本を訪れ、ヨソキチの残りの家族を連れてこようとする。しかし母親まゆはシアトルでトラコーマと診断され、伝染性があるため入国を拒絶され、子供を残してそのまま日本に帰国させられた。まゆは二度と子供達に会うことなく亡くなった。

カムデンではあたかもひとつの家族のように生活を共にした。信仰深い静かな家庭で、近隣の子供達を教育し、病人がいれば治療をした。ところが、以前から体調を崩していた阿部はなが、1911年2月に結核のために44歳で亡くなった。30年間、常に生活を一緒に共にしてきた仲間を失ったのは須藤らにとって辛いことだった。

1922年、ケルシーはカムデンの農地を売り、須藤やヨソキチと共に気候の暖かいフロリダ州セント・クラウドに移り住んだ。ケルシーはここで1931年、87歳で亡くなり、さらにヨソキチも1946年に81歳で亡くなった。

その後須藤かくは、1939年には「アメリカ市民ではない」という理由で、30年以上アメリカに住みながら、年金受給を停止された。こうしたくやしい思いもしたが、仕方ないとあきらめ、地元の教会活動に熱心に参加した。須藤の長年の夢であったアメリカ市民権をようやく得たのは、1953年7月、92歳のときであった。彼女のアメリカ市民権を得る前、その思いを次のように述べている。

私はいつもアメリカ人と一緒に生きてきました。日本にいた時も子供のころからそうでした。私はアメリカ人が好きです。彼らの生き方が好きです。自分の国の人たちよりもずっと近く感じます。人生のほとんどをアメリカで過ごしてきました、でもまだ私はアメリカ人ではありません。... 私が唯一残念に思っているのは、アメリカ人ではないということです。私は自分がアメリカ人のように感じ、アメリカに住んでいます。この国が大好きなんです。ここが私のホームです。私の甥はこの国に命を捧げました1。私の唯一の願いは、アメリカ人として死ぬことです。 (『The Orland Sentinel』1952年4月16日)

日本人でいち早くアメリカ市民権を得たひとりである。須藤かくは、ヨソキチの次女カツとその夫、吉田源五郎の世話をうけながら、1963年6月4日に静かに息を引き取った。102歳の生涯であった。

* * * * *

武士の娘、須藤かくが生まれたのは幕末の時代であり、当時の女子教育は寺小屋での読み書きが中心であった。10歳で上京し、英語を学び、30歳で海外に留学し、医大を卒業したのが35歳であった。明治時代の青森と横浜、横浜とアメリカの距離は今では考えられないほど大きい。さらに10歳というのはいかにも若すぎるし、逆に20歳で結婚するのが普通であった時代に30歳になって留学するというのも普通ではない。さらに当時は、女性の人権がほとんどなく、米国では人種的偏見も強かった。ケルシーらの援助があったとはいえ、決して経済的に恵まれた状況ではない。英語による医学授業は難しかったろう。こうした距離、年齢、性別、人種、語学、経済力などのハンディーは、今日でも大きな壁であるにもかかわらず、明治維新、太平洋戦争という二つの時代の波をも乗り越えたかくの行動力には驚かされる。

一方、当時の女性としては最高の教育を受け、医師、教育者として日本での活躍が期待されながらも、恩師ケルシーの帰国、引退の際には、一緒にアメリカに行くことを決意し、その後も一生日本に帰国することなく、ケルシーの最後を看取った。こうした潔さと思いやりは心打たれる。

須藤かくは、日本での生活、仕事の期間が短かったことから、地元、青森県でもほとんど知られていない女性である。今回、アメリカの新聞記事と日本の資料を併せて、かくの生涯を追うことができた。彼女の生涯を考えてみると、信仰心をもって、時代に立ち向かった強い女性像を見出すことができる。須藤かくは自立した、活動的な現代女性のパイオニア的な存在ともいえるだろう。

注釈:

1. 姪の息子ケンジロウ・ヨシダのこと。ケンジロウは、戦時中、442連隊に配属され、1944年イタリア戦線で戦死した。

 

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須藤かく —日系アメリカ人最初の女医— 第1部

『大和コロニー フロリダに「日本」を残した男たち』などの優れたノンフィクション作品で有名な作家、川井龍介さんから突然のメールをもらったのは2011年10月のことだった。

「現在、アメリカ、フロリダの日系移民の歴史を調べていますが、フロリダのセント・クラウドで1963年に102歳で亡くなった日系人でKaku Sudoという人物がいます。青森県弘前市出身で、死亡診断書によれば父親の名はTsuiji Sudo、母親の名はYeuri Fujitaだそうですが、何か情報はないでしょうか」。

「わかりませんが、もう少し調べてみます」と答えてはみたものの、情報があまりに少なく、途方にくれた。

取りあえず“Kaku Sudo”を、弘前に多い姓”須藤かく“と解釈して、検索すると佐藤幸一著、「安斉丸船将 須藤勝五郎の生涯 弘前藩士の信仰の軌跡 」という本が唯一、ヒットした。幕末、弘前藩が所有する西洋船、安斉丸の船長として活躍した須藤勝五郎の生涯を描いた薄い本であるが、勝五郎の姪として須藤かくの名が登場する。ただ記載はわずかで、横浜に上京した時点でかくの名はなくなる。その後、”Kaku Sudo”のキイワードで主としてアメリカの古い新聞記事を中心に調べて行くと、アメリカ生活がおぼろげながら判明し、ここで初めて弘前とアメリカが繋がった。須藤かくは、アメリカで活躍した最初の日本人女医であることがわかった。


須藤かくの家族構成

須藤かくは1861年1月26日、青森県弘前市の弘前城近くの大浦町小路で父須藤新吉郎と母うりの間に長女として生まれた。須藤家は弘前藩三代藩主、津軽信義(治世1631-1655)に仕えた須藤長左衛門を祖として、幕末はかくの叔父、須藤勝五郎が当主であった。須藤勝五郎、名は茂則、御馬廻番頭格、高百石の中級武士で、父、熊三郎は塚原卜伝流の剣術の使い手であり、勝五郎も文武両面に優れ、弘前藩の西洋式帆船安斉丸の船長として、野辺地戦争、箱館戦争で活躍した。

かくの父、新吉郎(1831年生まれ)は、幕末の人材登用により、兄勝五郎の住む若党町とは別に大浦町小路に分家した。1868年11月に野辺地戦争に参戦し、その後 北海道の函館に派遣され、そこで西洋土木工学の新知識を習得した。維新後は青森県庁の役人となり、民政局庶務掛少属として青森の町づくりに参画する。明治に入り、名前を序(ついで、ついじ)と改名した。妻としてうり(旧姓:藤田)を迎えた。長男(名は不明)と、長女かく、次女まゆをもうけるが、長男は早逝してしまう。
 

横浜共立女学校

新吉郎は明治の早い時期に函館で西洋知識に接し、新しい時代にはこうした学問が子供に必要と考えていた。 シンシナティーの新聞記事(『Cincinnati Enquirer』 1895年3月3日)には、下記のように記されていた。

「ミス須藤の父親は、青森の山中の小さな村から、一人息子を教育の機会に恵まれた東京に行かせようとした。そしてまだ10歳だったミス須藤は、自分も一緒に行って勉強したいと父親に嘆願した。この旅は、502マイルにおよぶ大変難儀なもので、男たちが担ぐ籠にのり、その後は船に乗らなければならなかった。父親は娘をこんな大変な旅には行かせたくなかったが、結局はかわいい娘の希望を認めることにした。しかし、東京に到着したものの、女子は学校で勉強できないことを知り、失望することになった。偶然、二人のアメリカ人が横浜で女学校を開設していることを聞き、入学を許され、ミス須藤は大変うれしく思った」。

かくが入学した横浜共立女学校は、同郷の本多庸一(キリスト教伝道者、教育者)に横浜で英語を教えたジェームス・バラが、アメリカより三名の米国婦人一致外国伝道協会(WUMS)の女性宣教師、メアリー・ブライアン、ルイーズ・ピアソン、ジュリア・クロスビーを招聘して作った学校であった。

「向学心の盛んな女史(かく)は学校に入りたいと思っても東京に女子の学校がなかったので、男装して中学校に入学した。それがある所で性別がばれて、退校させられた。それから横浜にあるアメリカのミッションスクールに入り、ケルシー女宣教師について普通学のほか医学を学んだ」(笹森順造、『青森県海外移住史』)

明治4年(1871)ころに、かくは兄と共に上京し、おそらくは本多の勧めもあり、翌年10月に二期生として横浜共立女学校に入学したとある(「思い出を語る」 小島清子、『横浜共立学園六十年史』より)。ここでの授業はほとんど英語で行われ、聖書、音楽、英語、国語、数学、地理、歴史、倫理学などを寄宿生活しながら学んだ。

当時の女子教育は寺小屋での読み書きが中心であった。青森で、ようやく小学校ができたのが1873年であることを考えると、1871年に津軽の女の子がわずか10歳で自分の意思により上京し、英語を学ぼうと考えたのは、極めて先進的な行動である。


宣教医アデリン・ケルシーとの出会い

横浜共立女学校の宣教医アデリン・ケルシーは、ニューヨーク州、カムデンで150エーカーの農園を持つ熱心なキリスト教徒の名家の娘として1844年2月26日に生まれた。1868年にマウント・ホリヨーク大学、1876年にニューヨーク女子医学校を卒業し、1878年に中国、通州に宣教活動のために派遣されたが、体をこわし、一旦、アメリカに帰国した。その後、体調が回復したので、1885年12月に横浜に来た。校医をしながら、近隣の病人のもとに往診し、年間1000名以上の患者をみた。彼女は優秀な日本の生徒をアメリカで教育し、女医にさせようと計画し、選ばれたのが須藤かくとその後も須藤と活動を共にする阿部はな1であった。

渡米前に、ケルシーがかくと青森を訪れたことがシンシナティーの新聞(『Cincinnati Enquirer』 1895年3月3日)に掲載された。

ある休暇に、ケルシーはミス須藤と共に、彼女の故郷である青森を訪れた。

ケルシーは山中に住んでいる年老いた須藤の両親から、あまり暖かい歓迎を受けなかった。彼らはあまり外人を見たことがなく、偏見をもっていた。ケルシーは居間には入れてもらえず、一人、慇懃に別の掃除が行き届いた部屋に通された。

ケルシーのキリスト教への信仰が、彼らの嫌悪の理由であったが、彼女の人柄に触れるにつれて次第に親戚達の見方は変わっていった。ケルシーはニューヨーク、ウェストデールにいる彼女の父親から手紙を預かっていたので、それをミス須藤に渡し、彼女が父親に訳して話した。

父親は熱心に聞き、ケルシー親子の愛情を知り、うれしく思ったし、大変驚いた。彼は感謝を示したいと、ケルシーの父親にプレゼントを送った。というのも外人が自分の娘をそれほど愛するとは思っていなかったからである。

このプレゼントは彼の所有するものの中では最も価値のあるもの――350年前から彼の曾祖父、祖父、父もが代々帯刀していた古い刀であった。

もし彼の息子が生きていたら手放すことはなかったが、すでに受け継ぐものはなかった。

そしてかくは父からアメリカ行きの許可をもらった。しかしこれが、かくの両親との最後の対面であり、102歳で生涯を終えるまで、一度も弘前へは戻らなかった。

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注釈:

1. 阿部はなは、1866年ころに、阿部定右衛門の長女として東京府で生まれ、横浜共立女学校を1886年に卒業した。

 

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