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日系人失踪者:アルゼンチンの良心に再び現れた人々 - その1

1977年4月21日の夜、武装した14人の私服の男が、私の父の事務所に押し入り、父ともう一人の弁護士を連れ去りました。複数の目撃者によると、男たちは父をフォード・ファルコン(軍と警察の専用車)の後部座席に乗せ、走り去たそうです。

その夜私は、母ベバと弟のレオナルドとアコイテ通りのアパートの8階にいました。コンロで何かが煮えていました。食卓の準備は整っていましたが、その夜食事をした記憶はありません。何かが起きていました。母は緊張し、ほとんど口を開きませんでした。それは妙なことでした。母は私とのおしゃべりが大好きだったからです。

私はソファに座り、毛布に包まりテレビを見ていました。母は何も言いませんでしたが、父を待っているということは分かりました。母はじっと時計を見ていました。鍵が回る音が聞こえることを願って、私は白いドアを見つめていました。エレベーターが止まり、金属製のドアがキーキーいいながら開く音が聞こえました。私たちは玄関に走り、ドアを押し開けました。そこにいたのは隣の住人でした。私たちは挨拶をしてアパートに戻りました。眠りそうになっていた私に、ベバはベッドで寝るように言いました。

真夜中、突然母に起こされました。イタリア系の祖父母の家に急いで向かわなければなりませんでした。私は5歳、弟は2歳でした。何か大変なことが起きていることはすぐに分かりました。母は泣いていました。それまで私は、母が泣くのを見たことがありませんでした。祖父のフアンが母を落ち着かせようとしていました。祖父は母に、父を探しに行こうと言いました。

しばらくして二人は戻りましたが、手掛かりはありませんでした。母が父を探す間、祖父母が私とレオの面倒を見られるよう、私たちは祖父母の家に引っ越しました。

1970年代にアルゼンチンに住んでいなければ、アルゼンチン史上最も暗く凶悪な時代の象徴である失踪者 「desaparecidos」のことは知らないでしょう。全ては無言で行われ、国民は手遅れになるまで、つまり愛する人々が捕らえられ、拷問を受け、殺害され、遺体が出ないまま永遠に葬り去られるまで、自分たちの政府がどれほど残虐かを知りませんでした。人々は、生きてもいなければ死んでもいない失踪者を弔うことさえできませんでした。遺体がなければ、犯罪そのものが存在しないことを意味したからです。被害者は沈黙させられ、彼らの声も思考も、一瞬で奪われました。

1900年以降、アルゼンチンでは6回クーデターがありました。1976年3月24日に起きた最後のクーデターが最も凶悪で、極めて甚大な人権侵害をもたらし、軍事政権が立ち上がりました。国民の投票で選ばれたペロン政権は倒され、新政権は行政および立法にかかる全権を”大統領”に委任し、あらゆる法律が大統領令で通過できるようになり、憲法は過去の産物と化しました。

米国の権利章典の真逆を想像してもらえれば、当時のアルゼンチンの人々の権利がどのようなものだったか分かるでしょう。国民は言論の自由、表現の自由、政府に請願する自由、集会の自由、政党に加入する自由、報道の自由など、さまざまな自由を失いました。労働者の権利は全て奪われ、”危険な”本は燃やされ、最高裁と議会は解散しました。何より重大な問題は、3万人以上の命があまりにも悲惨なやり方で奪われたことでした。

みなさんには、小説か何かのように突拍子もないことのように聞こえるかもしれませんが、可能性と現実の間には紙一重の違いしかありません。人間はどこにいようと皆同じです。私たち全員に共通する人類の歴史に慎重でいなければ、アルゼンチンで起きたことは、どこででも起こり得るのです。

独裁政権は国家テロを利用し、あらゆる対抗勢力を排除しました。暴力は国民を支配するための原則で、例外ではありませんでした。”社会的統制”を維持するため、恐怖の利用、検閲、監視、国外追放、裁判を通さない投獄など、たくさんの方法が使われました。国家的暴力が最終的に行きついたのは、アルゼンチン全土に建てられた秘密収容所でした。国民はそこに強制的に連れて行かれ、尋問を受け、拷問され、殺されました。遺体は集団墓地に埋められるか、飛行機からラプラタ川に捨てられました。

”失踪”現象は、軍事政権にとって好ましくない人々のアイデンティティーや歴史、彼らが支持するものを抹消すために政権が企てたことでした。みなさんは、政治状況が自分に影響することはないと考えるかもしれませんが、実際にそうなれば影響は甚大です。一夜にして、目撃者はおろか当事者になることもあり得るのです。これは私の家族に実際に起きたことです。

ギャビーの父と母

オスカー・タカシ・オオシロ。この名前を見ても、みなさんにはピンと来ないでしょう。自分とは関係のない人だと思うでしょう。でも、私と家族にはかけがえのない人でした。彼は私の父で、エドヴィガ・”ベバ”・ブレソリンと結婚し、二人の子供、レオナルドとガブリエラ・オオシロをもうけました。拉致された1977年4月21日、父は36歳でした。

私たちは典型的な家族でした。父が働き、夏季休暇は海辺で過ごし、優しい親族に囲まれていました。私たちには強い信念があり、夢もありました。

おそらく典型的でなかったのは、当時は気付きませんでしたが、私たちが多人種の家族だったということでしょう。1970年代の日系アルゼンチン人コミュニティでは珍しいことでした。でも、他の16人の日系人失踪者同様、父は変わっていました。父は、日本の歴史や言語、習慣について幅広い知識を持っていましたが、典型的なニッケイ人ではありませんでした。アルゼンチンをこの上なく愛していた父は、タンゴ音楽を愛し、マイナーリーグのフラカンサッカークラブでプレーし、連れ去られた時にはタンゴ史初期に関する本まで執筆していました。

他国の日系移民コミュニティがどのようなものか私には分かりませんが、20世紀前半にアルゼンチンに移住した日本人移民は、経済的機会を求めていました。彼らの主な目的は、財産を築き日本に戻ることでした。日本が第二次大戦に破れると、ほとんどの日系人がアルゼンチンに留まり、この国を祖国にすることを決めました。

沖縄の大城家、曽祖父がハワイに移住し、その後アルゼンチンに渡った。曽祖父の兄(弟)のヒデイチ・オオシロは画家で、第二次世界大戦で米国海軍に従軍した退役軍人。

日系人は、自分たちのルーツとのつながり維持しながら、日系コミュニティの中で密接な人間関係を形成していきました。父と父の姉(妹)ヨウコは日本語学校に通い、私と弟がブエノスアイレスに住んでいた時と同じように日系の行事に参加していました。当時の日系人は、まだ自分たちを訪問者と捉えていたので、地元の政治に参加することもありませんでした。自分たちだけで孤立し、日系人同士で結婚していました。

後年、祖母イクコは、私の両親が結婚できるまで時間がかかったと言っていました。祖父のカツが反対したそうです。母が結婚相手として不十分だったからではなく、イタリア系だったことが理由でした。日系人と結婚するのが当たり前という暗黙のルールと伝統がありました。

一方で、両親が交際していた当時、祖父カツが二人をよくボクシングの試合観戦に連れて行ってくれたと母が話してくれたことを覚えています。カシアス・クレイ、別名モハメド・アリ対オスカー・ボナベナの試合も見たそうです。

父は、ニッケイ人のもつ固定観念が好きではありませんでした。あらゆる現状を変えたがっていました。意識的にイタリア系の母に恋をしたわけではないと思いますが、父には理想主義者としての情熱があり、世界を変える意思がありました。子供の頃の私には、そうした情熱は理解できませんでした。なぜ政治や父の周辺の世界がそれほど重要なのか、分かりませんでした。でも、今となっては、芸術や音楽に対する私の情熱に似ているところがあると感じています。

父は、”ハイブリッド”だったと思います。アルゼンチンと日本という両方の文化と国を、同じように愛していました。父は熱心な読書家でもありました。もっとたくさんの本が読めるようにと速読講座を受講するほど、知に対し貪欲でした。日本語、イタリア語、スペイン語を話し、フランス語ももちろん勉強していました。物事を中途半端で投げ出さない、まさに有言実行の人でした。

父を突き動かしていた動機の一つが労働者の権利でした。父は法科大学院2年の時に退学を決め、鉄鋼工場で働くことにしました。労働者と共に働き、彼らが何に苦悩し何を必要としているのか、より深く理解するためでした。父は組合の代表になりましたが、後に労働者のストライキが始まり解任されました。

当時の父は、労働者の生活の改善にほとんど貢献できませんでした。父に相談を受けた母は、法科大学院に戻るよう父を説得しました。労働者を支援し、しかるべき発言権を彼らに与えるには、それが最適な方法に思えたからです。父は学位を取得し、労働法専門のブエノスアイレスでは三大大手の弁護士事務所に就職しました。父は記録的速さで卒業し、その後すぐに公証人となり、弁護士事務所の共同代表になりました。

事務所の同僚たちは、父の親友でもありました。父の事務所には一日に30人から40人の工場労働者が相談に来ていました。全員が支援を必要としていました。耐え難い労働条件だったからです。独裁政権が起用した経財大臣は、父が対抗していた工場の経営者だったと母が教えてくれました。裁判での父の勝訴が近づいていたので、判決を遅らせ、沈黙させる一番手っ取り早い方法が、父の誘拐だったのです。

父は度重なる恐喝に耐え、命の危険にさらされていました。私たち一家は1ヵ月間メキシコ大使館に身を寄せていました。父は政治亡命しようとしましたが、裁判官が人身保護令状を発行し、国外に出られなくなりました。それは死刑宣告を受けたようなものでした。もし飛行機に乗ることができていたら、みんなでメキシコで新しくやり直せていたらどんな人生が送れていただろうと、私はいつも考えました。

父とギャビー、リバダビア公園にて。

何らかの出来事が、人生を左右する瞬間になることがあります。父は、本当は国を出たくありませんでした。自分の祖国はアルゼンチンだといつも言っていました。私たちは親戚と仲が良く、遠く離れて暮らすことを祖父母は嫌がりました。軍事政権とその追随者が、どれほど無慈悲で残虐だったか、当時は誰も知らなかったと思います。

私は、他の日系人失踪者も父と同じことを言っていたことに気付きました。「ここは私の国だ。どこにも行かない」と。当時高校生だった18歳のホルヘ・オオシロ(親戚ではありません)も失踪者でした。彼は、最悪でも軍人に頬を打たれる程度で、すぐに家族のところに帰れるだろうと考えていました。

独裁政権は、誰の顔もまともに見ることはありませんでした。殺害する対象が妊婦でも男でも10代の子供でも、彼らには関係のないことでした。人々の頭から頭巾を被せ、アイデンティティーを奪い、番号を付けました。

拘束中の母親から、たくさんの赤ん坊が生まれました。拘束した側は赤ん坊を奪い、”浄化作戦”の関係者の養子にしました。”破壊分子”(自分たちと同じ考え方を持たない人々を、独裁者側はこう呼びました)は遺伝すると考え、子供たちが復讐に戻ることを恐れたのです。出生証明が偽造され、誰かが、どこかで、突然自分の家に新生児を迎えていました。

5月広場*の祖母たち(Abuelas de Plaza de Mayo)は、400人の行方不明の赤ちゃんのうち119人を取り戻しました。祖母たちは、秘密収容所で生まれた親のない子供たちを探し出すため、およそ40年に渡り活動を続けています。身元検証のためのDNAバンクも立ち上げました。当然孤児たちはもう子供ではありません。自分たちの人生が嘘に基づき、実の両親の死に”誘拐犯”と呼ばれる人々や養父母が関わっていたことを知ることは、どんなに控えめに言っても大きな衝撃です。

アルゼンチンで、私たちは今も軍事政権による恐ろしい犯罪の余波と向き合っています。どこにいても、誰であろうと、何から逃げていようと、正面から向き合わなければその恐怖から逃れることはできないのです。

その2 >>

* 五月広場(Plaza de Mayo)は、アルゼンチンの大統領官邸である”ピンク色の館”から通りを挟んだ向かい側にある。1970年代から80年代、五月広場の祖母たちは失踪した人々の名前が刻まれた白いスカーフをかぶり、無言で広場を歩いた。

 

© 2016 Gaby Oshiro

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