「今度のポルトゲスの先生はジャポネーザだ」
情報は稲妻のように次々に伝わって行った。専門学校の3年の男子生徒たちがずらっと窓から顔を出していた。
その前を通って、3年A組に向かう「新米」の先生はわたし。
どこまでも続くかのような長い廊下。とても緊張していた。はじめての学校勤め、はじめてのクラス。今思い出すと、「ごくろうさん。よくやったね。」と自分に言いたいほどの体験であった。。
数学とか理科だったら、これまで日系人の先生はいたけれど、ポルトガル語を専攻にした日系人は珍しかった。例えれば、不器用なあひるが「白鳥の湖」を踊るように異例なものだった。
母はいつも「顔はルーツを語る」というようなことをポルトガル語で言っていた。
思い出すと、小学校のころ、受け持ちの先生はわたしにこう聞いたことがあった。「ラウラって日本語でどういう意味なの」。わたしは質問の意味が分からなくて、答えられなかった。先生はきっと、わたしが日本人の顔をしているから、名前は当然日本名と思い込んでいたのだと思う。
予備校と大学時代にも面白いことがよく起きた。わたしの論文はときどき選ばれて、皆の前で先生方に批評された。うまく書けているとか、独自性(オリジナリティー)があるとか。そして、その文章を書いたのがラウラ・ハセガワだと分かると、クラスメートは、驚き、わたしを囲み、話しかけてきたものだ。中には「どうしたらジャポネーザがポルトガル語をこんなにすらすら書けるの」と。わたしはただほほ笑むだけだった。それはわたしにとって息をするように自然な行為だったから。でも、ちょっぴり得意だった。
さらに面白いのは、未だにわたしが日本語でのものかきだと思われていることだ。わたしには四冊の著書がある(小説2、短編1、詩集)。その他に新聞に載った記事やエッセイもある。しかし、ブラジル人はそうでもないが、日系人には何度もこう聞かれた。「あなたは、日本語で書くのでしょ?」...「これって、ほめてるの?」それとも、「ポルトガル語で書けるハズはない」とでも?
今は、おかげ様で胸を張って「はい、日本語でも書けます」と言えるようになった。
決してわたしだけの力ではない。神様の御恵みによって、たくさんの人がわたしを支えてくださったので、ここまで来れたのだ。
みんなにOBRIGADA!
© 2011 Laura Honda-Hasegawa