ディスカバー・ニッケイ

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叔父に呼びよせられて渡米を決意

おじさんがね、あのー、キャンプから、コロラドに行っとったんですけどね。そこで、砂糖大根やとうもろこし作とった。とうもろこしって言ってもね、たぶんね、食べるだけのやつじゃなくて、馬の肥料にするやつも作っておったんじゃないかと思うんですよ。あのー、当時の写真見ました。かなり、背が高い、えぇ、とうもろこしでしたから。それで、こちらに来れるようになりまして、終戦国ってことで、来れるようになってからね、こちらの農場に戻ったわけですよ。

ところが、あの、えー、おじさんには2人娘おりまして、あのー、それぞれお婿さんもいるんですけど、長女のほうのお婿さんがお百姓さん関係やっておったんですがね、どうもその、あの、おじさんら夫婦は、あの、明治の堅気の人ですから、その、あまり、お婿さん芳しくないと思ったでしょう、たぶん。で、誰かいないって言うんで、僕がそのたまたま、あのー、県のほうでそういう百姓のことやってんで、これがいいだろって言うんでね、それで、うちのお母さんに交渉して、あんた、たくさん兄弟いるんだから、あの、男の兄弟持ってるから、1人くれって言ったんですよ。

僕は下から2番目ね。あと、お兄さんが2人おったわけですよね。だから、いいだろって言うんで、ぎりぎり何か交渉して、OKになったからって。僕、知らなかったんですよね。それで、いや、あのー、ま、いきなりで、あの、軽い気持ちだから、僕もじゃあ行ってみようかなと思って、おったんですがね。でも、来たからには、やっぱりこっちに骨埋めたほうがいいなぁと思いましたけどね。それで…


日付: 2007年5月8日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津江

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

米澤義人氏は、宮城県中新田町に1930年に生まれる。日本では、学校卒業後、農業試験場で農業技術を学び、県庁の農業技師の職に就いた。その関係で、アメリカで農業を営んでいた叔父に、事業を手伝って欲しいと頼まれ、1956年7月に渡米した。

最初の2年は、カリフォルニア州のインペリアルバレーの叔父の農場で野菜や果物などを栽培。この当時から、叔父に連れられ、宮城県人会の活動に参加するようになる。その後、叔父の勧めで英語を勉強するためにロサンゼルスへ移動。学校へ行きながらも、生活のために様々な職を転々とした。最終的に、UPSの職を得、退職する1992年まで32年間勤務した。

退職を機に、宮城県人会の会長へ就任。現在も会長職を継続し、活発に活動している。(2009年2月)