ディスカバー・ニッケイ

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宮城県人会との出会い

えぇ。エンペラバリーに行く前に。その時にちょうどね、あのー、ピクニックがあるから、一緒に行こうって連れて行かれたんですよ。だから、来るとすぐに、連れて行かれたわけですよ。あの時に、どこでやったのかなぁ。アルヨセコパークだったのか、エリシャンパークだったか覚えてないですけどね。たぶんね、アルヨセコパークじゃないかなぁって思う気がするんですけど。で、連れて行かれて、あのー、これ年2回のピクニックだ。すごい人だったですよ、その当時は。あの、幕、紅白の幕、張りましてね。えぇ。ものすごい人なんですよ。こんなに年役の人いるのか。

うちのね、日本から来る時ね、僕ね、あの、そういう細かいことなどないだろうと思っとったんですよ。こんなに小さい国から来てね。あのー、日本よりかも大きなこのカリフォルニアだけでも大きいでしょ。だから、日本人っていうのは一緒になってやってると思ったですよ。で、あんまり分かれてやるのは、僕嫌いなほうだったですから。一緒にやったら力も出るからいいんじゃないか。で、来てみたら、あっちにある県人会、こっちにある県人会っていうこと言うでしょ。だから、こりゃあ、こんなふうになってと思っとったら、あの、聞いてみますと、やっぱり、郷里の言葉で話してね、いくと、懐かしいし、そういう関係だのあるので、たいていそういうのできてるってこと聞きましたね。あぁ、なるほどなぁと思いましたけどね。


日付: 2007年5月8日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津江

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

米澤義人氏は、宮城県中新田町に1930年に生まれる。日本では、学校卒業後、農業試験場で農業技術を学び、県庁の農業技師の職に就いた。その関係で、アメリカで農業を営んでいた叔父に、事業を手伝って欲しいと頼まれ、1956年7月に渡米した。

最初の2年は、カリフォルニア州のインペリアルバレーの叔父の農場で野菜や果物などを栽培。この当時から、叔父に連れられ、宮城県人会の活動に参加するようになる。その後、叔父の勧めで英語を勉強するためにロサンゼルスへ移動。学校へ行きながらも、生活のために様々な職を転々とした。最終的に、UPSの職を得、退職する1992年まで32年間勤務した。

退職を機に、宮城県人会の会長へ就任。現在も会長職を継続し、活発に活動している。(2009年2月)