ディスカバー・ニッケイ

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不当な出来事に関する忘れられない証言(英語)

(英語)当時まだ16歳だった参考人による証言がありました。彼女は、収容所に着いた時、衣類を脱ぎ裸になるよう指示された、と言いました。何が起きたのかと言うと、医師か保健師の男性が、女子全員の性器の検査を行った、と言うのです。「私もその中の1人でした。」と彼女は言いました。

今の時代は自由で開放された風潮があるので、このようなことに対し、「だから何?」などと肩をすくめて言われるかもしれません。しかし、1942年当時の、特に日系社会の常識を考えると、たしかに夜は混浴のお風呂に入っていたかもしれませんが、自分の体を他人に見せないというのが一般的な感覚だったことは明白です。

性器の検査があったという女性の証言を聞き、これは深刻な侵害行為だと思いました。非常に重大な侵害です。僕の頭から離れませんでした。なぜ彼女達にそんなことを?僕は思いました。彼女たちは、ハンセン病療養所から出て来たわけではなく、ごくごく普通のコミュニティから来たアメリカ人です。しかも、この人たちは勝手に連れて来られたのに、今度は性器の検査なんて!何てことを?何てことをするんだ?僕は思いました。このことは、僕の頭からどうしても離れませんでした。


投獄 監禁 リドレス運動

日付: 1998年8月27日

場所: 米国、ペンシルバニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・マルタニ裁判官は、ワシントン州ケントで生まれました。大統領行政令9066の発令により、マルタニ氏はワシントン大学から退学を強いられ、1942年フレズノ集合センターを経 て、ツールレイク強制収容所に収容されました。1942年秋、マルタニ氏は釈放され、サウスダコタ州ミッチェルのダコタ・ウェスリアン大学で法学を学ぶことになりました。

海軍に志願するも、4C(敵性外国人)の烙印を押され不合格となりましたが、アメリカ陸軍情報部の任務に就くことになりました。軍務を終えたマルタニ氏は、シカゴ大学の法科大学院で学び、ペンシルベニアで6カ月間の実習生となりました。その後、1975年までフィラデルフィア通常事件裁判所で裁判官の任務に就きました。

マルタニ氏は、日系アメリカ人市民同盟を拠点に活動し、様々な役割を担ってきました。また、当時のジミー・カーター大統領による、戦時中の日系人強制収容に関する調査のための、9名のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)委員の1人に選ばれました。マルタニ氏は、委員に選ばれた唯一の日系人でした。(2008年4月11日)

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家