https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/959/
CWRICに関わった唯一の日系判事
(英語)イノウエ上院議員(ハワイ州選出)から電話があり、委員会(戦時民間人転住勾留委員会:CWRIC)の委員に任命する、という伝言を秘書から受け取りました。それからもう少し時間をさかのぼり、確かマイク・マサオカ氏が、僕に委員になる気があるかどうか電話で聞いてきました。確かマイクだったと思います。また、当時の僕の理解では、ジェリー・エノモト氏の名前も候補にありました。その他には誰が候補者だったかは分かりません。君は知っているかもしれないね。僕は知りません。
アプローチがあった後、僕はどうするか考えてみました。大変だ、厄介な問題だ、と思いました。日系人としてその立場に身を置けば、前方後方中央、どこに立っても火傷は必至だし、引き受けても受けなくても、恨まれることに変わりはない。かなりの論争を招くことになるし、自分が傷つく可能性もある。そう考えた僕は、相当躊躇しました。 当時の僕は、このように考えていましたが、躊躇するのと全く同じ理由で、引き受けることに決めました。よし、やってみようと思ったのです。
僕にできる唯一のことは、人々の個人的感情がいかなるものであれ、この問題の中心に身を置き、取り組むことでした。そして、どんな結果になろうとも自分の信念に従い、進むことでした。これは、まさに挑戦でした。これほど深く厄介な問題に介入することへの恐怖はありました。しかし、その恐怖こそが僕が委員を引き受けた理由でした。
日付: 1998年8月27日
場所: 米国、ペンシルバニア州
インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ウィリアム・マルタニ裁判官は、ワシントン州ケントで生まれました。大統領行政令9066の発令により、マルタニ氏はワシントン大学から退学を強いられ、1942年フレズノ集合センターを経 て、ツールレイク強制収容所に収容されました。1942年秋、マルタニ氏は釈放され、サウスダコタ州ミッチェルのダコタ・ウェスリアン大学で法学を学ぶことになりました。 海軍に志願するも、4C(敵性外国人)の烙印を押され不合格となりましたが、アメリカ陸軍情報部の任務に就くことになりました。軍務を終えたマルタニ氏は、シカゴ大学の法科大学院で学び、ペンシルベニアで6カ月間の実習生となりました。その後、1975年までフィラデルフィア通常事件裁判所で裁判官の任務に就きました。 マルタニ氏は、日系アメリカ人市民同盟を拠点に活動し、様々な役割を担ってきました。また、当時のジミー・カーター大統領による、戦時中の日系人強制収容に関する調査のための、9名のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)委員の1人に選ばれました。マルタニ氏は、委員に選ばれた唯一の日系人でした。(2008年4月11日)
収容所の補償運動の達成と教育(英語)
(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。
日系ペルー人ゆえに拒否された賠償金(英語)
ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)
戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)
日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)
賠償金について(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
カナダでの補償運動(英語)
日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)
Asian Americans for Actionへ参加してよかったこと(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)
時期を見計らって始めた補償運動(英語)
人種ゆえにより説得力を持った証言(英語)
元米国陸軍対敵諜報部将校(1922-2005)
集団訴訟によってまとまった日系コミュニティ(英語)
二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)
弁護士 (1946年生)
コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)
考え方の変化(英語)
コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)
制度の中で(英語)
正義への戦い(英語)