ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/956/

日系アメリカ人市民同盟に参加した理由(英語)

(英語)戦前は、生きるために稼ぐことで精一杯でした。若過ぎたのでしょう。誰も19歳の子供の言うことになどに耳を傾けませんでしたしね。1950年代中頃に僕がJACLに入った理由は、そうですね、第1に、社交できると考えたからです。今では結婚して子供も2人いますが、他の日系人と話をしたり一緒に食事を楽しむのはいいものですからね。JACLは、そういった機会も提供していました。また、JACLの活動には支援する価値があると思えるものもあったのです、参加することにしました。


コミュニティ コミュニティー組織 アイデンティティ 団体

日付: 1998年8月27日

場所: 米国、ペンシルバニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・マルタニ裁判官は、ワシントン州ケントで生まれました。大統領行政令9066の発令により、マルタニ氏はワシントン大学から退学を強いられ、1942年フレズノ集合センターを経 て、ツールレイク強制収容所に収容されました。1942年秋、マルタニ氏は釈放され、サウスダコタ州ミッチェルのダコタ・ウェスリアン大学で法学を学ぶことになりました。

海軍に志願するも、4C(敵性外国人)の烙印を押され不合格となりましたが、アメリカ陸軍情報部の任務に就くことになりました。軍務を終えたマルタニ氏は、シカゴ大学の法科大学院で学び、ペンシルベニアで6カ月間の実習生となりました。その後、1975年までフィラデルフィア通常事件裁判所で裁判官の任務に就きました。

マルタニ氏は、日系アメリカ人市民同盟を拠点に活動し、様々な役割を担ってきました。また、当時のジミー・カーター大統領による、戦時中の日系人強制収容に関する調査のための、9名のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)委員の1人に選ばれました。マルタニ氏は、委員に選ばれた唯一の日系人でした。(2008年4月11日)

ロバート・T・フジオカ

日系人としてハワイで育つ(英語)

ハワイ生まれの元銀行幹部職員(1952年生)

キシ・バシ

日本人でもありアメリカ人でもある(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

キシ・バシ

両親は新一世(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

ミシェル・ヤマシロ

ペルー系沖縄人としての両親のアイデンティティ(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

沖縄文化の理解(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

本州の人々の沖縄人に対する偏見(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

共感する米国的な価値観(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミツエ・ヤマダ

詩を通して自分を表現(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。