ディスカバー・ニッケイ

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打ちのめされた誇り (英語)

(英語) LTPRO(リトル・トーキョー人権協会)のメンバーは、全員が三世でした。彼らは、1960年代から70年代初頭のベトナム戦争を経験した世代です。その時代、戦争反対を訴える団体や、アフリカ系アメリカ人の公民権運動を支持する組織など、草の根活動団体がたくさんありました。大学に行きながら、マイノリティの権利獲得のため運動に身を投じていた三世たちは、アフリカ系アメリカ人の活動に影響を受けていました。アフリカ系の人々は、「ブラック・パワー」や「ブラック・イズ・ビューティフル」といったスローガンの下、活発な運動を繰り広げていましたが、アジア系、ことに日系人に関しては、収容所に送られたことが原因で、必ずしも積極的な活動をしていたとは言えません。誰かが言っていたことですが、日系人はレイプ被害者のようだったのです。起こったことを話したがらず、収容所に居たことを恥じていた訳です。

憲兵隊の列の前を歩かされている人々を想像してみてください。どんな気持ちになるでしょう?囚人か、社会のはみ出し者のような気持ちになるのです。収容所の中では、監視塔から銃口が向けられ、フェンスにぐるりと囲まれていました。そんな状況下に置かれ、周りに居るのは自分と似たような顔した人たちだった訳ですから、自分は日系人でなければよかった、と思ってしまうのです。

このような心理状態で、日系アメリカ人の誇りは崩れていきました。そして結果的にコミュニティは散り散りになり、まとまった1つの共同体の存在が失われるレベルまで、崩壊してしまったのです。補償運動を進める過程で苦悩したのはこの点でした。人々の沈黙を破らせ、日系人であることを誇りに思ってほしかったのです。


公民権 世代 三世

日付: 1997年9月13日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ラリー・ハシマ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

バート・ナカノ氏は、1928年、ハワイ州ホノルルに生まれました。戦時中に強制収容されたハワイ在住の日系人はごくわずかでしたが、ナカノ氏一家は、ハワイで身柄を拘束され、合衆国本土の強制収容所に送られました。当時14歳だったナカノ氏は、アーカンソー州のジェロームに拘留され、その後カリフォルニア州のツールレイク収容所に移送されました。

結婚し、シカゴと日本で働いた後、ナカノ氏は南カリフォルニアに移り住みました。ナカノ氏は強制収容の事実に長い間憤りを感じ、また戦後多くの日系人が日系のルーツを恥じる風潮にも反発を感じていました。

1976年、ナカノ氏は、大学生だった息子の後押しで、彼自身も強い問題意識を感じていた問題に取り組むため、草の根活動団体、「Little Tokyo People’s Rights Organization(リトル・トーキョー人権協会)」に加わります。この団体は、ロサンゼルスの再開発事業計画に反対の立場を取っていました。なぜならその開発計画は、低所得者や中所得者層の日系人、そして家族経営の小企業の存在を脅かすものだったからです。

1978年、ナカノ氏は、第二次大戦中強制収容されていた日系人への賠償を求めるため、「補償を求めるロサンゼルス市民連合」の立ち上げに協力しました。そして1980年、ロサンゼルスの連合は、全米の各地域に根ざした団体と共に、「NCRR(補償を求める全国連合)」を組織しました。ナカノ氏は、9年間にわたってNCRRのスポークスマンを務め、その間NCRRは、日系議員や退役軍人、日系アメリカ人市民同盟などの団体や個人と協力し、正義を求めて共に活動しました。バート・ナカノ氏は、2003年に亡くなりました。(2008年4月15日)

フランク・エミ

国家への忠義に関する質問 (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

フランク・エミ

収容所の中での意思表示 (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

フランク・エミ

徴兵忌避者の投獄 (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

フランク・エミ

「再び同じ行動をとるでしょう。」 (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

フランク・エミ

「しかたがない」意識を超えて (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

ウィリアム・ホウリ

訴訟を行うことで人権回復のための基準を設定(英語)

政治活動家(1927-2010)

上杉 武夫

ニューヨークで学んだ後、日本に帰国(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

トム・ユキ

憲法に守られることを信じていた父(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)