ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/911/

正義への戦い(英語)

(英語) 二世が残した教訓は、たとえ自分たちの権利を一度は見落としてしまっても、その後、一市民として、救済を求めるために権利を行使すべきだということです。もしかしたら救済を得ることはできないかもしれませんが、とにかく挑戦すべきです。ヘンリー(ヘンリー・ミヤタケ)が言っていたことですが、日系以外の彼の友人たちは、日系人を尊敬できなかったそうです。なぜなら私たち日系人は、自分の信じる正義を勝ち取る努力をしないまま、沈黙を守りじっと耐えていたからです。(二世が始めた正義への戦いによって、)「私たちの親は不当な扱いを受けた。でも彼らはその問題に立ち戻り、戦った。彼らは意思表示をした。」という思いを、未来の世代に残すことができたのです。


公民権 リドレス運動

日付: 1997年9月11日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: グレン・キタヤマ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

スー・クニトミ・エンブリー氏は1923年、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。戦前エンブリー氏は、リトル東京で育ちました。そして19歳で他の大勢の日系人と共に、マンザナー収容所に強制収容されました。そこで彼女は、収容所新聞、マンザナー・フリー・プレス紙の編集者となります。戦後エンブリー氏は、中西部で数年を過ごし、1948年にカリフォルニアに戻りました。カリフォルニアで結婚したエンブリー氏は、その後教職に就きました。

1969年、エンブリー氏は、最初のマンザナー巡礼の旅の企画に参加し、その直後、共同でマンザナー委員会を立ち上げました。委員会は、マンザナーがカリフォルニア州の史跡となるよう、そしてゆくゆくは国の史跡認定を受けられるよう先頭に立って働きかけました。

エンブリー氏は、強制収容について最初に沈黙を破った数少ない日系二世の一人でもありました。彼女は過去を忘れ去ることよりも、強制収容の事実を人々に伝え、教育することを選び、日系三世や四世に自身の体験を伝え始めました。その後彼女の活動は、マンザナーに教育センターの立ち上げを提案することにまで及びました。教育センターは、2004年に開館し、スー・エンブリー氏は、2006年に83歳で亡くなりました。 (2008年4月15日)

バート・ナカノ

大衆の力 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)

ウィリアム・マルタニ

公民権運動への積極的参加(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

補償金額の算出(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

CWRIC委員就任の決断(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

イノウエ上院議員による CWRIC委員の選考について(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

日系委員としての個人的感情(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

不当な出来事に関する忘れられない証言(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

証言者の背景にある怒りを理解すること(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

補償金辞退の道理(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

補償運動後の日系アメリカ人の未来(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

クリフォード・ウエダ

補償受給者決定のための判断基準(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

日系アメリカ人市民同盟(JACL)代表への任命(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

賠償から補償への変更(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

全米JACL補償運動委員会議長にジョン・タテイシ氏を任命(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)