ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/674/

強制収容の過去について話す母とその感傷的な反応 (英語)

(英語) ちょうどその頃、僕は両親に(収容所について)聞くようになったのですが、彼らももう少し話をしてくれるようになり、1つ強く印象に残っていることがあるんですね。僕は母に、「お母さん、収容所はどんな感じだったの?収容所での生活はどうだった?どこに連れて行かれたの?」と聞いたんですね。そしたら母はサンタ・アニータに収容されていたことや、妹と共にそこに到着した時のことを教えてくれたんです。そしてその収容所には馬屋があって、地面は飼い葉や土だったそうです。壁には馬の糞も付いていて、ひどい臭いだったと言っていました。そして明かりは1つしか無く寝るところや手洗いも無い状態で、そんな話をしながら母は泣き出したんです。そして僕は母が涙するのをその時初めて見たんです。母は、「収容所は、そうね。かなりひどい場所だったわ。」と言いました。そして、「今その話はしたくないの。」と言って、それ以上話したがりませんでした。この時まで僕は、母が自分の気持ちを言葉にしたり感情的に反応するのを見たことがなかったんですよ。


カリフォルニア州 馬小屋 投獄 監禁 サンタ・アニタ強制収容所 一時拘置所 アメリカ合衆国 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2003年2月8日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ、マーガレット・チョン

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project

語り手のプロフィール

デール・ミナミ氏は、1946年10月13日カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ、同州のガーディナで育った日系三世の男性です。1968年、南カリフォルニア大学で政治学の学士号を取得し、卒業時(学業優秀者に贈られる)magna cum laude(優等賞)を受賞、同時にPhi Beta Kappa(全米最古で終身会員制の優等学生友愛会)の会員資格を授与されました。そして1971年、カリフォルニア大学(バークレー校)Boalt Hall School of Lawで法学修士号を取得しました。ミナミ氏は、Asian Law Caucus, Inc.、Asian Pacific American Bar Association of the Greater Bay Area、The Asian Pacific Bar of California, the Coalition of Asian Pacific Americansの共同創立者です。

ミナミ氏は、アジア太平洋系アメリカ人およびマイノリティーの公民権に関わる(数多くの)重要な訴訟に関わってきました。そのひとつに、コレマツ対アメリカ合衆国があります。これは、当初米連邦最高裁が(日系アメリカ人を隔離し収容することへの合憲性を)支持するという重要な判決を下し、40年前にコレマツ氏が、第2次世界大戦中に日系アメリカ人に出された退去命令を拒否した罪で有罪となったのを覆す訴訟でした。その他には、1)アジア太平洋系アメリカ人(全体)を代表してアジア太平洋系アメリカ人が起こした初の雇用をめぐる集団訴訟、United Pilpinos for Affirmative Action対California Blue Shield(保険機関)。2)アジア太平洋系アメリカ人を代表し、ワシントン州立大学にアジア系アメリカ人研究プログラムを開設するよう要求した集団訴訟、スポケーンJACL(日系アメリカ人市民同盟)対ワシントン州立大学。3)終身在職権を不当に却下されたことを申し立てたことで、教育の場で差別があると公に報道された為、最終的に学校側から終身在職権を与えられた、ナカニシ対UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)など、重要な訴訟に関わってきました。

ミナミ氏は、カリフォルニア大学バークレー校およびカリフォルニア州オークランドのミルズカレッジで教えた経験があり、State of California's Fair Employment and Housing Commission、State Bar of California(カリフォルニア州法曹協会)、およびJudicial Nominees Evaluationのコミッショナーを務め、更にAttorney General’s Asian/Pacific Advisory Committeeの委員長、Senator Barbara Boxer’s Judicial Screening Committeeのメンバーを務めています。また1994年には、クリントン大統領の任命によりCivil Liberties Public Education Fund Commissionの委員長を務めました。現在は、サンフランシスコを拠点とするミナミ・リュー・タマキ法律事務所のパートナーとして、人身傷害およびエンターテイメントの法律を専門に活躍しています。(2003年2月8日)

Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

補償受給者決定のための判断基準(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

サンフランシスコのCWRIC(戦時市民転住収容に関する委員会)公聴会での悲痛な話(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Frank Emi
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フランク・エミ

国家への忠義に関する質問 (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

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Frank Emi
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フランク・エミ

収容所の中での意思表示 (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

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Young O. Kim
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ヨンオク・キム

ジェロームからの異動を拒む(英語)

第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)

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Frank Emi
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フランク・エミ

「再び同じ行動をとるでしょう。」 (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

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Young O. Kim
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ヨンオク・キム

幹部候補生学校卒業後のジェローム訪問(英語)

第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)

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Sakaye Shigekawa
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サカエ・シゲカワ

強制収容以前に経験したトラウマ (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

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Sakaye Shigekawa
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サカエ・シゲカワ

サンタ・アニタ強制収容所医療チームへの参加 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

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Sakaye Shigekawa
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サカエ・シゲカワ

「みんな、盲従した」 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

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William Hohri
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ウィリアム・ホウリ

ターミナルアイランドの人たちと収容所へ(英語)

政治活動家(1927-2010)

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William Hohri
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ウィリアム・ホウリ

収容所の屋外便所とシャワー(英語)

政治活動家(1927-2010)

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William Hohri
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ウィリアム・ホウリ

15歳の当時、冒険のように思えた収容所(英語)

政治活動家(1927-2010)

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Sumiko Kozawa
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スミコ・コザワ

日系アメリカ人の避難 (英語)

花屋 (1916-2016年)

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Jimmy Ko Fukuhara
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ジミー・コウ・フクハラ

マンザナーでの暴動(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

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