https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/664/
弁護士(1955年生)
(英語) 私が小さかった頃は、ガーデナの人口の3分の1が日系アメリカ人だったと思います。私はとても居心地のいい環境で育ったんです。私と同じ外見で、同じように崩した日本語を使い、同じ食べ物を食べる人たちがたくさん周りにいて、何よりも地域社会のリーダーになっている日系人がたくさんいましたからね。日系アメリカ人の市長や市会議員もいましたし、日系人の銀行もありました。日系教会もたくさんあって、メソジスト教会やバプテスト教会、それに仏教寺もあったし、私たちの手本となる人やリーダーがたくさん居たんです。
よき手本となる本当に素晴らしい日系アメリカ人の中で育つことができたことは特別なことだったんだ、って今になって思うのです。そしてその環境は私に、自分にできないことはほとんどないはず、と自信をつけさせてくれたんです。大きくなったら市長にだってなれる、などと思うことができた訳です。そして小さい頃に銀行家や市長に自分もなれると信じられれば、いつかそれ以上の何かにだってなれるかもしれない、と子供は考えられるようになるんですね。私自身や兄妹にとって大切だったことは、無意識にのけ者にされているような気持ちになったり、取り残されたような感覚に陥ることなく成長することができことです。そして自分たちを励ましてくれる、よき手本となる人たちのコミュニティーに囲まれていたことは良いことでしたね。
日付: 2000年3月23・24日
場所: 米国、ワシントン州
インタビュアー: マーガレット・チョン、アリス・イトウ
提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project
ロレイン・バンナイ氏は、1955年にカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた日系三世の女性です。大きな日系アメリカ人コミュニティがある(同州の)ガーディナで育ち、コミュニティーや政治で様々な役割を果たしていた父の影響や、教育熱心な母の影響を受けて育ちました。カリフォルニア大学サンタバーバラ校に入学し、そこで日系人の歴史やエスニック・アイデンティティの問題、人種の不平等を強く意識するようになります。その後サンフランシスコ大学法学部で学び、政治や社会運動への志を強くもつようになりました。
法学部を卒業してわずか2、3年後、バンナイ氏は、コレマツ対アメリカ合衆国で1994年に米最高裁が下した判決の再審を求める弁護団に加わりました。第2次世界大戦中に退去命令に背いた罪で、コレマツ事件は連邦最高裁まで持ち込まれましたが、その連邦最高裁とは、軍事的必要性という米政府の論拠を基に、日系アメリカ人を隔離し収容することへの合憲性を支持していたところだったのです。そこで弁護団は、自己誤審令状を請願し(この事件は裁判官と検事側の弁護士が誤った事実を基にしたものだと立証し)、事件(の審議)を再開させ、退去命令の事実根拠は不正であるという証拠を提出しました。これにより、コレマツ氏のケース、およびこれに似たいくつかのケースの有罪判決を無効としたのです。このインタビューでバンナイ氏は、自己誤審令状の弁護団、日系アメリカ人コミュニティーの支援努力、このケースに関わったことで個人的に得た教訓などにについて語ります。(2000年3月24日)
ワイキキで育った経験(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
太鼓演奏の哲学(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)
母と祖母を見て学んだ日本の伝統(英語)
演歌歌手(1981年生)
日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)
(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長
目立ちたくない外国人(英語)
在日三世・剣道家
人類全体への思いやり(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
アイデンティティ・クライシス(スペイン語)
家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)
日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)
日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)
日本へ行くこと(英語)
アメリカ人になろうとした結果(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
歌詞の意味を伝えたい(英語)
ネイティブアメリカンの居留地でのインターンシップ(英語)
和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)
東海岸とロサンゼルスの違い(英語)
在日日系アメリカ人デザイナー
ハワイ島コナのコミュニティ(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)