ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/618/

収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)

(英語)ジャック(夫)、一世だったあの男の人を覚えてない?ほら、ユタ州に住んでいて収容所には入れられなかったけど補償請求をした人・・・・

ガーディナの西南シニア・シティズン・プログラムだったかケン・ナカオカ・(コミュニティー・)センターか何かで、一世と一緒に仕事をしていたメアリー・フルタニという人がいたのですが、その男性がたまたまメアリーのところに来て彼女にこんな事を言ったんです。「補償の請求をしたんだけど、収容所には入れられていないからって却下されたんだ」とね。ですから(それを聞いた)私は「だってあなた、収容所にいた人の名前はきちんと名簿に記録されているから、誰がそこにいたか簡単にわかるのよ」と言ったんです。

そんな話があったちょうどその週、私とジャックは当時メリーランド州スートランドにあった公文書館に行き、たまたまそこで私はWestern Defense Command zone(西部防衛司令部管轄地域)外でFBIに連行された一世の名前を記録した3X5インチの(小さな)カードを見つけたのです。するとどうでしょう、何とそこにあの男性の名前があるじゃないですか!彼はユタ州ビンガム(市)で日本人であるという理由で逮捕され、ソルトレイク・シティー(同州)の刑務所に確か2ヶ月も拘置されていたらしいんです。もちろん逮捕される理由は何もなかったので、当局もそれ以上拘置することは出来ず、その後釈放になったようですけど。

つまり彼は収容所にこそ入っていませんでしたが、ただ日本人であるというだけで逮捕され、2ヶ月間も拘置されたんです。これは明らかに、「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)によって、アメリカ政府によって保証されているこれは自由の剥奪です。ちょっとしたきっかけでしたが、私が小さなカードに彼の名前と(逮捕された時の)短い記録を見つけたのは、このように全くの偶然だったんです。


政府 政治 リドレス運動

日付: 1998年8月26日

場所: 米国、バージニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

アイコ・ヨシナガ・ハージックは1924年、カリフォルニア州サクラメントに生まれました。熊本県出身のヨシナガ一家は、1919年に渡米し、世界恐慌の頃にカリフォルニア州ロサンゼルスへ引っ越しました。

第2次大戦中、初めは夫の家族とともにマンザナーへ収容されていました。その後、夫と離れ、生まれたばかりの娘と共に、実父母の収容されていたアーカンソー州ジェローム収容所へ転送されました。1944年、ヨシナガ一家は収容所を出てニューヨークへ移り住みました。その後、夫と離婚しますが、2世兵士と再婚しました。アイコは、占領下の日本で従軍することになった2番目の夫とともに、日本へ移り住みました。そこで夫の同僚であるジャック・ハージックと出会い、その後1978年に彼と結婚しました

アメリカ帰国後、Asian Americans for Actionの活動に参加するようになりました。補償運動の際は、夫ジャックとともにワシントンDCの国立公文書館で資料を集め、とても重要な役割を果たしました。公文書館からの資料はフレッド・コレマツ、ミノル・ヤスイ、ゴードン・ヒラバヤシの判決を取り消すための再審請求(coram nobis)でも重要な証拠としても提示されました。また、アイコはCommission on Wartime Relocation and Internment of Civilians(戦時中の民間人転住と収容 に関する委員会)の主要な調査員として任命され、法務省のRedress Administration(補償運動管理局)で補償金の受け取りが可能な個人を特定などに携わりました。 

2018年7月18日、93歳で亡くなりました。(2018年7月)

ロレイン・バンナイ

「生涯をかける訴訟」に携わったこと (英語)

弁護士(1955年生)

デール・ミナミ

二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)

弁護士 (1946年生)

デール・ミナミ

コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)

弁護士 (1946年生)

デール・ミナミ

歴史の重要性を考える (英語)

弁護士 (1946年生)

ロベルト・ヒロセ

戦時中の日系人への政治的な影響(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

スー・エンブリー

考え方の変化(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

スー・エンブリー

制度の中で(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

スー・エンブリー

正義への戦い(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

ヘンリー・ミヤタケ

歴史は変化し続ける(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ピーター・アイロンズ

動かぬ証拠の発見 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

チエ・トミヒロ

聴聞会の証人委員としての役割 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長