ディスカバー・ニッケイ

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日本の教育を受けさせるようにという父の遺言(英語)

(英語) 私は8年生(中学2年生位)まで公立の小・中学校に通い、9、10、11年生(中学3年~高校2年生位)になると、ミッション高校に通いました。11年生の時は高校へは9月から12月まで通いました。1938年の9月に私の父は他界し、生前母に、私と私の妹2人を日本に連れて帰って、日本の教育を受けさせなさい、と言っていたそうです。そして「教育さえ受ければ、後は皆独り立ちできるから、心配ないだろう」と、父は遺言を残したのです。母は私と二人の妹を連れて、クリスマスの後かすぐ前だったかもしれませんが、日本へ渡りました。


教育

日付: 2005年10月29日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: ノーム・イブキ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館

語り手のプロフィール

ウィリアム(ビル)・タサブロウ・ハシズメ氏は1922年6月22日にブリティッシュコロンビア州ミッションに生まれ、幼少時代をそこで過ごしました。1939年、父を亡くした後、ビルは日本で教育を受けるため母と二人の妹とともに大阪へ移住しました。1941年の真珠湾攻撃ゆえに、ビルと彼の家族は日本に足止めされましたが、ビルは日本で学業を続け、1944年に神戸市立工業高等専門学校を卒業しました。その後まもなくして徴兵された彼は、日本帝国海軍に従軍し、1945年に海軍が解体されるまで士官を務めました。

戦後、ハシズメ氏はアメリカ軍の憲兵隊で通訳を務めました。カナダ政府は、真珠湾攻撃後日本に足止めされたり、1940年代後半に日本へ強制送還された日系カナダ人に対し、1950年代初期まで帰国を禁止していたため、ビルはカナダへ帰国することができませんでした。が、1952年カナダ政府より市民権を復権し、姉妹のいるトロントへ戻ってきました。

ハシズメ氏は55歳で技師としてひとり立ちしました。オンタリオのDepartment of Highways(高速課)で技師として雇用、65歳で退職しました。また、ブリティッシュコロンビア州ミッションの日系カナダ人史を研究し、本を執筆しました。現在、彼はトロントで活動的で健康な日々を送っています。(2006年8月23日)

ヘンリー・須藤

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